鋏を握った
ああ、いらいらする。
肌に張り付くようにべっとりとした空気も、少し身動ぎをしただけで痛む背中も、つまらない他国の気候の話も。
いらいら、する。
どうしようもない黒々とした靄が心臓を覆うように纏わりついて、呼吸すらしづらいのだ。
彼はポケットに手を突っ込んで、白球の縫い目を丁寧に指でなぞっていく。
雨はいまだ止むこともせず、窓にその透明な身体を叩きつけていた。
沢口の姿がなかった。
そのことに気づいて二時間めの業間休みに豪の許へ行けば、暗い雰囲気を醸す東谷と三人で部活を休んで沢口の家にいくことになった。
嫌な予感ほどよく当たるという。
教室に戻ってからも、休みの席がいやによく目立っていた。
エックスがどうの定理がどうのとまるで水中にでもいるかのように教師の声がやけに屈折して聞こえた。BGMになりもしない声を流して、ひたすら頭の中で考える。
沢口に会って、そうしたら昨日の話をして、それから――。
ずきりと傷が痛む。
目を閉じれば暗闇が広がり、くぐもった不鮮明な声が鼓膜の内側で揺れる。
(…くそ)
右腕を握りしめた。痛みの所為で、指先が震える。握りしめたシャーペンが、手の中で悲鳴を上げた。
授業終了を合図に雨は激しさを増していた。さようならと告げる声に学校中に響く喧騒が酷く煩わしい。
薄っぺらい鞄を担ぎ、教室の外で待っていた豪と東谷と合流してから部室へと向かった。
途中仕様もない話で草薙に呼び止められて、先に行っててくれと伝えた二人を追いかけるように玄関へと急ぐ。
湿っぽい所為で歩くたびに靴の裏が高い音を出してうるさかった。
今日はやたらいらいらする、と理由もはっきりとわかってはいたけれどこんなにも一つ一つが頭にくるものだからどうしようもなく疲れた。
薄暗い昇降口で自分のクラスの下駄箱の前まで行って、立ち止まる。
――名字。
でかけた声を飲み込み、歩み寄る。
放り投げられた白い靴をぼんやりと見つめる彼女は、ここ最近そういえばそんな雰囲気だったかもしれない。
かえんないの、といつまでも動く気配のない彼女に声をかければ、ゆっくりとこちらを見上げて笑った。
帰らないとだね、と曖昧な返答をした名前の顔を見て、何も言うことができなくなった。
彼女の事情は知らないし知ろうとも思わない。どうでもいいのだと、吐き捨てることに慣れていた。自分には全く関係のないことじゃないかと、そう思い直して靴を放る。
ぱこんと軽い音を立てて随分と履き辛い位置に落ちた靴にまたいらいらとして、仕方なく踵を揃えようと手を伸ばして痛みが走った。
――気づかれたくはない。同情も気遣いも、されたくはなかった。
だからついもれそうになった声を必死に飲み込んだというのに、彼女はあたかも優しげな声で怪我をしたのかと問うたのだ。
指先が背中に触れたような気がして、咄嗟に「さわんな」と声を上げていた。彼女の事が自分に関係がないように、今ここで怪我をしていようといまいと何も知らない名前になんのつながりがあるというのだ。
――なににいらついているのか、既によくわからなくなっていた。それなのに。
顔を歪めてそこにいるから。
弾かれた手もそのままに、まるで石像のように固まった彼女に湧き上がるこの苦い思いが息苦しくて。
気付けば踵を踏んでいるのもかまわずに飛び出していた。
ただ一直線に部室へと大股で歩く。
不鮮明な声は、相変わらずぼやぼやと何かを囁いていた。
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