差異を計る



二日後、野球部の顧問が怪我をして入院したらしいことを校内で誰彼もが話していた。野球部の顧問である戸村という教師は風紀委員の担当であり服装検査に引っかかると指導を受けるような、一年はそんな程度の関わりでしかないのだけれど、どうやら野球部員とのいざこざの末の入院ということで廊下ではそれなりにざわめいているようだ。
野球部、ということは巧の――。
机に鞄を置いて、気づく。
この間のはやはり彼は怪我をしていて、その怪我はもしかすると今回の件と何か関係があるのではないだろうか。


(……関係ない、か)


ガタリと派手な音を立てて椅子を引く。
ただ偶然入学前に会っただけ、偶然にも同じクラスになって、たまたまちょっとしゃべるくらいなだけ。
それだけ考えれば、むしろそんなにも考えていることが純粋におかしく思えた。
これではまるで――。
思考を遮るように、始業のチャイムが鳴る。
一限目が終わるころまで、斜め前の席が埋まることはなかった。


薄い鞄を担いで、教室を出ていく背中を横目見る。その視線の先には豪がいて、穏やかな空気を漂わせながら扉の陰に消えていった。
放課後の、青と薄橙の混ざる空はこの間までの雨が嘘のようで、思わず苦笑いがもれた。


「名前ちゃん帰らんの?」


巧と違って少し重そうな鞄を両手に提げる彼女、矢島繭は柔らかく目を細めながら首をかしげる。


「いつも教室残っとるよね」
「うん、なんとなく、ね」
「小学校と、雰囲気ちがとってええよね」


窓の外から聞こえる部活に励む声が、人の少なくなった教室を突き抜ける。
繭がそう言いながらちらとグラウンドのほうを見つめるからつられて視線をよこせば、ふいに放送が流れた。


「校庭にいる野球部の諸君、今朝説明した通り今日の部活は中止です――」


かたりとおもむろに立ち上がって窓際に移る。
そこには、たった数人で野球を始めている見慣れた姿があった。


「すごいよね」
「え?」
「原田君、自分の言いたいことなんでも言えて。私、いっぱいいっぱいであんなはっきり言えんもの」


少し眉尻を下げた彼女は小さく笑う。
名前はジャージの中に埋もれるピッチャーの姿を見つけて、それから繭を見た。


「でも、相手のことを考えて話すのって難しいし、言いたいことをはっきり言えるのもすごいけど、私は繭ちゃんみたいによくよく考えて話せる人もすごいなあって、そう思うよ」


幼ければ自分のことばかりを考えてしまうし、相手を思いやることも簡単なようで難しいのだろう。言いたいことをはっきり言えるのは巧はああいった性格なので時には――というより全体的に、反感を買うことのほうが多いのかもしれない。


「主張するのって大事だと思うけど、ね」
「そ、そうかな。私自分に自信ないし、おどおどしてしまうし」
「十人十色って、千差万別ってやつだね。気づけていればこそ、なんとかなるものもある――と、私は思うのです」


何を語ってるんだかと自分で恥ずかしくなってごほんとあからさまにもほどがある照れ隠しに、繭はふんわりと笑って「そうやね、ありがとう」といった。たかが彼女より二年多く生きていたに過ぎない。その二年も自身が成長できるほどに多くの何かを経験したかと言われれば、きっといかにも平平凡凡な日々を送っていただけなのだから、偉そうに言葉を並べられるような人間ではない。
名前は頬を人差し指で掻きながら、緩やかに橙に染まる教室を見渡す。


「――頑張らないと、ね」


こうしてここに住む人たちと言葉を交わすたびに募るこの思いを、なんというのかわからないけれど。少なくとも自分は紛れもなくここにいるのだと自覚する。
繭が不思議そうに瞬きをするのに笑って答えれば、彼女は教室の外で髪の長い――小野先生というらしい――先生に呼ばれて、じゃあねと手を振り去って行った。
壁にかかる時計を見れば、それは五時ちょっとすぎを指していた。


「…たしか、六時までだったっけ」


窓のサッシに肘をつき、キャッチボールを始めた彼らを眺める。
風が流れるたびに、聞きなれた声が耳をなでる。
――きっと、これでたとえばクラスが変われば、こんなふうな距離感になるのだろう。
たまにグラウンドにいる彼らを眺めて、名前はこのまま大人になってくのかそれとも向うに帰れるのかどうなるのかわからない生活を送る。
もともと、そんな距離だったのだ。
キィンと白球が飛び上がる。ぱしんとミットに収まる音が響く。ナイスボール、ときっとこの声は豪の声だ。あはははと笑う声ばかりがする抜ける。
目を閉じれば、夕日の鮮やかな赤が広がった。
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