一時急停止



今日くらいはと大目に見てもらったのか、あれきり放送はかからず、止めに来る教師もいなかった。
まだ陽の落ち切らない六時過ぎ、制服に着替えて帰る準備を始めた頃に彼は漸く忘れ物に気づいた。


「悪い。先、帰ってていい」
「ん、何じゃ忘れ物か?」


ああと頷き薄っぺらい鞄を肩に担ぐ。
どうせすぐ戻ってくるなら校門で待ってると後ろで告げられた声に適当に返事を返してから、人気の少なくなった校舎に戻った。
文化部は大概六時前には校舎を出るし、それ以外は体育館か校庭で部活をする生徒ばかりだから廊下の電気は消え、ざわついているのは職員室のある階だけだった。
赤い廊下が続く。
まるで異世界にでも放り込まれたかのような雰囲気だった。
一年二組と書かれたプレートが目に入る。
キュ、と上履きの音を鳴らせてしっかりと閉められたドアに近づけば、自動ドア宜しく勝手にそれは動いた。
弾かれるようにあげた顔に乗る双眸は驚きで見開いていて、耳の前に落ちる髪がさらりと揺れた。


「った、くみ」


――黒目がちな瞳が揺れる。彼女の唇から洩れた名前を、妙に久しく思えた。
ああ、そういえばと思い出す。
あの事件の後、下駄箱でのやり取りを最後にまともに話したことはなかったのかもしれない。
かもしれないと表現してしまうほどに、彼にとってはこの二、三日が劇的なものだったのだから、本音を言えば今の今まで忘れていた。脳裏をかすめた出来事に、思わず眉間に皺が寄る。
教室、入りたいんだけどといつものようにぶっきらぼうにそういうことで、気まずさから逃げようとした。
ごめんねと素早く身を引いた彼女の横を通り抜け、自分の席へ真っ直ぐに向かう。
動き出す気配のない名前の足音に少し耳を澄ませながら、明日提出の課題を机の中から引っ張り出した。
――カタン、とドアが小さな音を出す。
ばさりと机の上に冊子を放り投げてから振り返れば、そこには誰もいなかった。





「お、きたきた」


校門の前で、三人はけらけらと笑いながら待っていた。相変わらず東谷は何の話でか腹を抱えて笑っている。騒がしいなと心の中で溜息を吐きながら、少しだけ重たくなった鞄を担ぎ直した。


「名前とすれ違わんかったか?」
「は? なんで」
「いや、巧が来るちょっと前に会うてな。それだけじゃ」


だから、なんとなく。
本心でとくに理由はなさそうな顔をして、豪はそういった。わざと鎌をかけたり嘘を言ったりするような性格でないことくらいは知っているから、尚更答え方が分からなくなって無意識に眉間に皺が寄る。
ポケットの中に右手を突っ込んで、ボールの縫い目を辿った。


「なんで豪が名字さん知っとるんじゃ、しかも名前、じゃて」
「お、何々そういう話? てか誰じゃそいつ」
「うちのクラスの奴でな、そんな目立たん女子じゃけえ。でもなんかこう小町先生に似とるような…」
「やっぱり原田お前小町先生に…!」


ぎゃあぎゃあと隣でわめく二人を豪を真ん中に挟むことで回避する。


「何じゃ原田興味ありませんみたいな顔しよって」
「ぎゃはは、バッテリーで取り合いとかどんな昼ドラじゃ!」
「どろどろじゃな、あーやだやだ」
「ばかかおまえら! そんなんじゃのうて、なあ巧――」


握りしめるボールを真上に放り、取っては投げるを繰り返す。

巧、と耳元で弾けた声に振り向いて、豪の顔を思わず睨むような目つきで見上げた。それに奥の二人がまた茶化し始める始末で、彼は律儀に訂正を入れては同意を巧に求めている。
そんなの放っておけばいいのにともう一度放ったボールは手元に届くことなく奪われた。


「返せよ」
「一人で澄ましおってからに!」
「べつに、だってどうでもいいし」


豪の手の中に収まる白球を奪い返す。
そうだ、どうでもいいはずだ。
自分には関係のないことで、けらけら笑っている二人も明日になれば忘れてしまうかもしれないほどに遠いただのクラスメイトである。
四人が分かれる十字路に差し掛かる。また明日な、と叫ぶ声が仄暗い空に響いた。
あともう少しで、あのときに聞こえたぼやぼやとした声の正体に、気づけそうな気がするのだ。

背中がちりと痛む。

心臓の裏側に、なにかが引っかかっていた。




えせ方言の大合唱申し訳ない
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