紫陽花の涙



しとしとと雨が降る。
肌に吸い付くようなじめじめとした空気に何度目かの溜息を吐いて、適当に着替えて自室のベッドに飛び込んだ。この天気の所為で暫く干せていない布団はどことなく湿っぽいにおいを漂わせているような気がして、窓を叩く雨粒を睨みつけた。
――いつの間にか、梅雨の時期になっていた。
岡山の梅雨はどうやらそれほど降らないようで、今日の雨も朝方に強く降ったきり弱い雨がパラパラと降っているばかりである。
件の野球部は結局部活停止となり、グラウンドで彼らの姿を見ることはなくなった。
恐らく彼らの事だから、どこかで野球をしているのだろうけれど。


「…あ、雨やみそう」


机の上の財布を手に、階段をいきおいよく駆け下りた。
そういえば冷蔵庫がすっかり空になっていたことを思いだし、朝方にまとめていたスーパーのチラシに目を通す。主婦の感性に納得して行動に移してしまうあたり、随分と年を取った様な気にさせられる。
頭の中で買い物の算段を組み立てて小さなカバンに財布を詰め込み、透明なビニール傘をひっつかんで玄関から家の中を振り返る。


「…行ってきます」


行ってらっしゃい。笑う声が、頭の中だけで響く。
ばたんと、後ろ手に扉を閉めた。





夢を見ているんだと、今でもふと思う。
もはや見慣れた緩やかな坂道を買い物袋を提げて歩き、すれ違う見知らぬ人と挨拶を交わす。今日はいい天気ね、と毎度のこと定型文が飛び交い、心臓の裏側で何かが絡まっていく気がして急いで家に帰るのだ。
彼女は上り坂の向こう側を見上げて、足を止めた。
いつかきっと、帰れる。
そうしたら、大きな声で、ただいまと笑うのだ。
なんどもなんども頭の中で繰り返す。
凍る足を、繰り返す呪文で溶かしていく。
なだらかな坂道を登り終えて一息付けば、道路の小脇でしゃがみこむ少年を見つけた。高い塀に向かい合うように座る彼の足元には、まだ新しそうなグローブと使い古されたような白いボールがあった。
細い枝に茂る葉の影に隠れるようなその丸い背を何もみなかったかのように横切って歩き始めれるほど、非情な人間になったつもりもなりたくもない。
近づいて荷物を地面におけば、がさりとビニール袋が音を立てる。
びくりと驚いて振り返った少年の大きな瞳と目があった。


「転んだの?」


よく見れば、抱え込む膝頭が赤く滲んでいる。
絆創膏を持ち歩く習慣はなかったが、何もしないよりかはいいだろうとポケットからハンカチを取り出した。


「おうちに帰ったら、怪我したところをよく洗うんだよ」


きゅ、と膝を包むようにハンカチの端を結び目線を上げれば、少年は意外にも柔らかな笑みを浮かべていた。


「ありがとう、お姉ちゃん」


壊れやすそうな雰囲気に似合わず、したたかな少年である。これは要らないお世話だったかな、と内心苦笑して「車に気をつけてね」と笑えば、うんと頷いてまた笑っていた。
ばいばいと手を振る少年と分かれて、不意に見知った顔を思い出した。


(…気のせいかな)


小さい頃の顔など、大概みな似たような顔をしていたりするものだ。
それにしても可愛かったなああの子、と一人ごちて笑えば、前方からきた少年少女に見られてそそくさと家路を急いだ。
紫の紫陽花が雨露に濡れて光っている。
もうすぐ、六月になろうとしていた。
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