誰かのために



「――それでな、怪我したらママに怒られるからどうしようって思っとったら、手当してくれたんじゃ」


ベッドに横になってボールをいじる兄の横で、弟は絆創膏の貼られた膝頭を見遣りながらそう話していた。結局見つかってクラブを取り上げられそうになったけれど、と漏れたのは不満からではないのだろう。
兄である巧はたいして興味もなさそうに縫い目を見続けているがそれはいつものことで、弟はベッドに背をもたれさせながら思い出す。


「ハンカチ返せるかなあ」
「名前も聞いてないんだろ」
「うん、じゃけえまた会えるような気がするんじゃ。きっと、兄ちゃんの学校の人じゃ」


学校の人、と言われたところで全校生徒合わせて何人いるか考えたこともない。ふうんと適当に打った相槌に不満を言うことのない弟は、それから二三言話したあとに部屋を出ていった。
最近何かと部屋に来るのが鬱陶しいとは思うが、それも少し慣れてきた。
例えば弟の声がもっと高くてうるさかったら、きっと殆ど喋りもしないだろう。耳に残る甘ったるい声も頭に響く甲高い声も、まとわりつくような声は全て嫌いだ。
仰向けになってボールを真上に投げていれば、なんとなく先ほどの話が気になった。
家の前を通るのならそれはほぼ間違いなく新田中の生徒だろう。
買い物袋を提げていたと、その一言が妙にただひとりを連想させて離れない。


「……」


巧と呼ぶ。豪は名前と呼ぶ。仲がええのねと小町が言った。
ぽーんと高く白球を投げる。
天井の白に同化するけれど、巧にははっきりとそれが野球のボールだとわかるのだ。
――そういえば、ここ最近の気まずさはなんでだろうかと疑問が過る。
手を払ったから、睨んだから? 
昇降口が最後のきちんとした会話だったと思うから、きっとそこにあるのだろう。
――そこまで考えて、一瞬我に返る。
なんで俺が、と腕を枕にして壁側の方に寝返りを打った。


『――怪我、したの?』


あの日はやけに、か細い声だったような気がする。
関係ないだろうと、誰にも触れて欲しくなかったものに触れられたことに腹が立ったのだろうか。
自分の思っていることの全部を言葉で言い表せるなら苦労などしないのに、と豪を見ていてもつくづく思う。そう、思える自分がまたおかしくて考えるのをやめてしまうのだけれど。
豪だったら、きっと仲直りしろというのだろうか。
そもそも仲を直すといっても、何を直すというのだろう。
考えれば考えるほど、よくわからなくなっていく。どうせ、このまま進級すれば顔も忘れてしまう。名前を聞いてようやく少し思い出せるくらいだろう。
――きっとそうだ。
だったら、別にこのままでもいいじゃないか。
むくりと上体を起こして窓のサッシに肘をついた。街灯がポツリポツリと道路を照らす。人影もない道を明るくさせて、意味なんてないだろうに。
すうと夜の空気を吸い込んで、背中からベッドに倒れこんだ。
まだ痛む背中が、多分違うのだと告げているような気がした。


「……明日、」


明日、聞いてみるか。
生ぬるい風が、いやに肌に張り付いていた。
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