縒り合せ



座り心地の悪い教室の椅子に浅く腰掛け、五限目の授業の名残で大きなあくびを一つ掻いた。
十分という休み時間は眠るには短く起きているには長いもので、午後の心地のいい微睡みにぼんやりと机の節を眺めていれば、視界の端で折り目の綺麗なスラックスが見えた。そういえば母親が几帳面な人だとかなんだとか、初めの頃に聞いたことがあるようなないような。
曖昧な記憶に最早顔を上げなくともそれが誰だか分かってしまっている時点で意味などなく、このまま眠っているふりをしてもいいかも知れないとそれらしくふらりふらりと小舟を漕いで見せれば、ぱさりと見慣れたハンカチが放られた。
――世の中なんとも狭いものかな、洗っても落なかったのだろう赤い染みが、あの強かで柔らかな少年とこの目の前の男子とを繋ぎ合わせる。


「…あんたのだろ」


これは、顔を上げずにはいられなかった。


「……かわいい弟くんだね」


鋭い眼差しに、面影を探す。その視線に気付いたのか、彼は眉根を寄せて名前の手首を掴んで引っ張った。
授業開始までもう間もない。
当事者だからか、にわかに騒がしくなったような気のした教室を、ただ連れられるまま後にした。

チャイムの音が反響する声をかき消すように響き渡る。
屋上へと続く最上階の階段で、彼はようやく掴む手を離した。少し埃っぽいせいか思わず咽て、喉の奥に何かが絡まっているような感覚のまま「どうしたの」と首を傾げた。
数段高い位置にいる巧の身長もあいまって、自然と顎があがる。見上げた先で、いつも以上に険しい顔を浮かべていた。


「……血、落なくて、汚れたままで、ごめん」
「それなら全然。お節介だったみたい、弟くん、見た目に反して強い子だったから」


響かないようにと小さくなった声が、なんだかひどくおかしくて、くすと笑えば尚更眉間に皺が寄る。
次に続ける言葉を考えているのかぴたりと張り付いた唇に、名前は巧に背を向けて段差に腰を下ろした。


「つぎ、地理なのにいいの?」


いつぞやかに得意科目だと宣言していたのは懐かしく、それが本当でないことくらいは知っている。
別に、と言葉少なに返ってきた声音は固く、それから衣擦れの音がした。


「お兄さんの目は鋭くって、弟くんの目は大きくて、かわいい系だよね。モテそう」


道端でしゃがみこむ少年を思い返す。思い出すだけで、ふわりと花の香りがしそうだ。
後ろから返事がなくとも、振り返る勇気はなかった。
段々と丸みを帯びていく背中に、鼻と膝小僧が近づく。


「……私、一人っ子だったから、羨ましいなあ」


あわよくばあんなかわいい弟が欲しかった。


「兄弟で野球したりして、お下がりとか、そういうの憧れるな」


下の子からすればお下がりなんて嫌なことの方が多いのだろうけれど、上にも下にもいない身にとってはそんな文句すら羨ましい限りだ。
――驚く程つらつらと言葉が口をつく。
こんなにもお喋りだっただろうかと思うほど、くだらない話が止まらない。
彼はこういうだらけた意味のないおしゃべりは嫌いなんだろうなあとぼんやりと考えながら、今日の地理はヨーロッパの気候かなと少しだけ抜けてきた授業が惜しかった。
まるで想像上の友達と話をしているみたいだ。
返答がないことは、静かな空間は、ここ最近のせいで慣れている。


「…そういえば、怪我は大丈夫だった?」


たいして擦りむいてもいないだろうし、絆創膏も貼らないほうが寧ろ治りもよさそうだ。
小さい頃なんて転べば泣いてばっかりだったとぼやいて、それから兄の怪我も思い出す。
――鋭い声が鼓膜を切る。
巧はどちらの話ととっただろうか。彼自身のことととったなら、触れないほうがよかったなともう仕方がないとは言え小さな後悔がよぎる。
逡巡したことで名前も黙り、沈黙が降った。
階下で授業中の声がくぐもって四方から耳たぶを揺らす。
この沈黙をどうしたものかと湿った空気を吸い込んで、突然弾けた声に頓狂な声を出した。


「…悪かった」


なにが、と突いて出そうになった言葉を飲み下し、恐る恐る振り返る。
ぱちりと合った視線に気まずげに目を細め、頭を掻く彼はそれ以上言葉を紡がなかった。
――怪我は大丈夫かと問うた。
その答えが謝罪だというのなら、彼自身の話だろう。
弟の怪我のことで謝るにしては重すぎる。
思い当たる節があるとすれば、手を、振り払われたことでいいのだろうか。それを名前の口から言うことはためらわれる。
中途半端に開いた唇が渇いて、妙なべたつきを覚えもう一度口を閉じた。


「……もう、平気?」


うまく、笑えているだろうか。
言葉を選ぶのはあまり得意なほうではなく、思ったことがまっすぐ伝えられるほど素直でも考えなしでもない。
今は、巧のやたらに高い自尊心を傷つけてしまうことが、一番怖かった。
嫌われたくはないと、思うことはきっと豪に対しても誰に対しても同じだ。


「……ん」


素っ気なく、呼ばれる名前の心地よさを話したら、おそらく豪は笑って頷いてくれるだろう。
先に教室に戻ってるねと立ち上がり、スカートの埃を払ってから階段を静かに降りた。
折り返しの踊り場で見上げた空は、夕焼けが目に痛かった。


「名字」


中腹に差し掛かるあたりで足を止め、手すりを振り仰げば巧はやはり眉間にシワを寄せている。


「セイハ」
「…?」
「青い波で青波、弟の名前」


数瞬の間の後、吹き出しそうになった笑いを必死に抑えて「お大事に」と残しふたたび階段を下り始めた。
六月の湿気で錘のようだった下履きは、天日に干したように軽かった。
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