そうして



学校について階段を見上げるたび、あの日を思い出す。背中越しに聞いた巧の謝罪は、今も鼓膜を震わせるほどの揺らめきを持っている。
あれからどれほどが経っただろうか、梅雨はもうすぐ終わりを告げるという。
じめじめと心臓の心拍を緩慢にさせていくような気持ちの悪いまとわりつくような空気が晴れ、皮膚を焦がす日々がやってくる。
彼女と彼の関係は、何事もなく、そしてただのクラスメイトに戻っていた。
席替えをして離れた席は遠く、交わされる言葉は以前より確実に減っている。
理由はきっと、何もない。
少しばかり近すぎていた距離がようやく意味を持ったように空間を置いたのだ。
避けているわけではなかった。
避けられているわけでもないのだろう。
ただ、あの日の言葉は、彼女と彼にはほんのわずかに重すぎただけなのだ。


「この間中間が終わったばかりやのに」
「まあ、きっとなんとかなるよ」


二度目の中学一年生という事実が、最初の頃より薄ぼんやりとしてきていることはわかっていた。
巧と席が離れた代わりに、繭とは隣になり同じ野球部であるらしい沢口が前に座るという位置関係で落ち着いたため、休み時間の話し相手は専ら繭であった。
一応、受験を終えたばかりの高校一年生であったから一通りの授業はそこまで苦ではなく、どちらかといえば新鮮味がないことがつまらなかった。
もしこのまま戻れなかったら、また三年間見慣れた問題を解いて過ごすのかと思うと、初めより明らかに現実味――これが現実であるならば、と未だあがいてみるが――が増している。


「今度奈美ちゃんとみんなで勉強しない? 一人よりできる気がするの」
「そうだね、前より範囲広いもんね」


それでも、こうしてこの場所で関わっていく人たち全てが夢の中の出来ごとであったというのなら、余程想像力豊かなのだろうか。
給食のミルクパンをちぎって口に放りながらそんなことを考えていれば、どうにも顔が歪んでいたらしい。向かいに座る彼女がどうしたんと首をかしげていた。
何でもないよと首を振ったところで、視線が左右にそれる。
窓側に座る二人と対角線上の廊下側で、巧たちが視界に入った。
乾いた喉を通ったパサパサしたパンが詰まって、急いで牛乳を流し込む。
完全にクエスチョンマークが頭に浮いた繭に苦笑いをこぼして、それとなく新しい話題に差し替えてみた。
カーテンがくくられた遮るもののない陽光が、容赦なく背中を焼いていた。





最早歩きなれた道を帰る。
時折分かれる道の反対側を通ったことはないが、あの先を進んでいったらどこに行き着くのだろうという感情は沸かなくなっていた。
なんとなく虚しくなって部屋に倒れ込んだ時のあの感覚は、そう簡単に忘れることはないだろう。
紫陽花の香りのする家を通り過ぎ、坂道をくだろうとしたところで足を止める。
――紫陽花の香りとは、とうとう鼻までおかしくなってしまっただろうか。
半袖が心地よい季節だというのに、そんな馬鹿なと前方方向に踏み出していた足を逆方向に向け、来た道を引き返す。
門の傍に植わる花のない木が梅だと分かるまでに数分、お目当てのものは見つからない。警察犬宜しく、鼻をひくつかせてみてももうあの甘い香りはせず、何をやっているんだろうという羞恥心が勝った。
重い鞄を肩に背負い直し、門から目を背ければ運悪く家人と思しき男性に出くわしてしまった。
これから家に戻ろうといった様子で、顎に蓄えた白いひげが見事な年老いたその人は、丸い両目を柔らかく細ませてこんにちはと笑った。


「家になにか用かな?」
「あ、いえ……すみません……ええと、立派な梅の木だなあと、思いまして」


ああ、間違えた。
中学一年坊主が何を言うかと内心で笑い声が上がる。もう少しましな言い回しが思いつかなかったものかと今更後悔しても遅く、梅も生っていないのにかとくつくつと笑う彼に顔が赤くなるのを感じた。


「面白いお嬢さんじゃな、ありがとう。冬も穏やかになったらよう見るといい。蕾から花になるんまでが、一番綺麗じゃからのう」


白い髪が痛いほどの日差しに反射する。
気をつけて帰れと見送る彼に会釈して、気持ち小走り気味に角を曲がった。
――学校以外の住人も、話せるんだなあ。
どきどきとした心臓を押さえつけて、苦笑いがもれた。
何を言っているんだとまた心の声が笑っている。
竹林が両脇にそびえる道の途中で立ち止まる。さらさらと耳元で涼やかに流れる葉擦れの音と、形を変える足元の影をぼんやりと眺めながら、心なしか赤くなった腕をさすった。
生きているんだ、この場所は。
ふいに、こめかみがちかちかと痛んだ気がした。
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