蜃気楼



期末テストも終えてあとは午前授業がつづくばかりで、もうすぐ夏休みに入ろうとしていた。
光陰矢の如しとはこのことかな、と独りごちてみては漏れる溜息に嫌気がさす。
今週の金曜で夏休みだ。今日は火曜であるから、もうすぐ一学期が終わろうとしている。
鏡の前でセーラー服のスカーフを整えて、口に突っ込んでいた歯ブラシを抜き取って水を掬う。
流れていく排水口の先をぼんやりと眺めて数分か数秒か、ばしゃりと日常動作に慣れた両手が顔面に水をかぶせて我に返る。
学校に、行かないと。
リビングに戻ればつけっぱなしのテレビから陽気なコメンテーターの声が聞こえる。
ばちり、と電源を落とすスイッチを押せば、彼の姿はどこにも見えず、代わりに黒い画面に見慣れた少女が映りこんでいた。
ファイルぐらいしか詰め込んでいないカバンを抱え、無音の家を飛び出す。


「行ってきます」


返ることのない声にもう期待はしない。
なにせ、半年が経ったのだ。
現状をあるがまま理解するには、長い長い期間だっただろう。ただ、この夢のようなおかしな世界の終りを祈って過ごすだけというには、少しばかり長すぎてしまった。


「おはよう、名前ちゃん」


さらさらと艶やかな髪が視界の端でなびく。
隣の席の繭におはようと挨拶を返せば、彼女は屈託のない笑い顔で昨日起きた笑い話を話し始めた。





今日も今日とて真昼間のちょうど日差しの暑い時間に帰宅を迎える。ゆらゆらと蒸し暑さに向こう側の道路が揺れている。
アスファルトの照り返しを顎に感じながら、遠くから見ていた時に揺れていた道路を踏み越えた。

がくり。

全身が一気に脱力する。薄っぺらいカバンでさえ、鉄アレイでも仕込まれたのかと疑うほどにとてつもなく重い。そんな冗談を考えている余裕を奪っていく息苦しさが、視界を歪ませる。
――見ている視界がゆがんでいるのか、それとも世界自体がゆがんでいるのか。
ふっと一瞬にして遠のいた意識を手放して、反転する世界を見送った。







「名字名前です。よろしくお願いします」


いつだったか忘れてしまったけれど、親の仕事の都合で地方に半年ほど引っ越したことがあった。記憶の中にある私は制服を着ていたから、もしかしたら中学生のときだったのかもしれない。かもしれない、と記憶が曖昧なのは、恐らくその時のクラスがあんまりにも苦手で馴染めずに、結局後半は学校に行くのもやめてしまったからなのだろう。
思い出したくないからと何十にも包んで隠して、そうして奥深くに沈めたその記憶が、どうして今になってまるであぶくのように浮かんできてしまうのだろう。
もういっそこのまま忘れていたままで、よかったというのに。
――消えてなくなってしまえばいいのだ、あの頃の私など。
そう瞼を強く閉じれば、さらに深くに落ちていく。
自分の幼さを他人のせいにして認められずに、結局駄々をこねていただけだ。
死んでしまえと容易に口に出しては傷つけていたあの人は、今思えば親である前にひとりの人間だったのに。
ああ、本当にいつも、後悔ばかりだなあ、なんて私の意識が笑ったあとに聞こえた、涼やかな音が肩を叩いた。


「……う、ん……」


薄ぼんやりと目を覚ませば、飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
鴨居に吊り下げられた風鈴が風に揺れている。
首を動かした拍子にずり落ちた濡れたタオルだけが、ここが現実である感覚を教えてくれた。
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