誰かの願い



忘れたかった中学生の時の記憶。
後悔も嫌悪も含めて、あの時よりもっと前に戻れたら、きっと違う何か別の世界があったのではないかと思っていた。
ここは、私がここに来たのは――。




「お姉ちゃん、起きよった?」


かけられていたタオルケットを剥いでぴたりと微動だにしなかった名前の背後からかけられた声は、たしかに聞き覚えがあった。
ネジまきの人形のように誰かにネジを巻かれてようやく動き始めたこの身体は、その声の方へと振り向いて止まった。


「!? ど、どこか痛むんか!?」


小学三年生かそこらのまだあどけない少年が、手に持ったお盆をひっくり返しそうな勢いで詰め寄ってきたのに思わず背中を反らせて、少年の手が頬に触れてようやくその言葉を理解する。


「っ、ううん、なんでもないよ! ちょっと、びっくりしたというか…ほんと、どこも痛くないから……。ここは、君のおうち?」


はいどうぞと手渡された麦茶の入ったコップに、戸惑いながらも受け取れば、少年はうんとうなづいた。


「おじいちゃんがついさっきお姉ちゃんをおぶってな、帰ってきたんで。もう少しして目が覚めんかったら病院行こうかって、話してたんじゃ」


大事になる前に目が覚めて良かった、と内心ほっとしながら、冷たい麦茶を喉に流してから自分でもぎこちないと思う笑みを浮かべた。


「本当、ありがとう…おじいさんは、まだいます? おかげさまでもう大丈夫だから――」
「なあなあ、お姉ちゃん覚えとらん? 道路で転んどったの、ハンカチくれたんお姉ちゃんじゃろ?」
「え――」


カランと氷が音を立てて溶ける。
風鈴の音は相変わらず涼やかに耳元を撫でて、蝉の声は暑い日差しにひとつ減ってはふたつ増えた。
――青い波で青波、弟の名前。
低く変わりきらない声が振り落ちてくる。
記憶と照らし合わせるように無意識にその名前をつぶやけば、素直に目を丸める少年――青波が上半身を乗り出した。


「なんで僕の名前知っとるん!?」
「あ、えっと…あの」
「おお、なんじゃえらい楽しそうな声が聞こえると思ったら、目が覚めとったか」
「おじいちゃん!」


襖からひょっこりと顔を出した男は、嗄れた声と似つかわしくないほど若々しかった。外見が、ではなく、第六感から感じ取れる雰囲気とでも言うのだろうか。
彼は青波と二三の会話をすると、きょろりとこちらを見やって目を細める。
おそらく、彼の祖父にあたる人だろうなとぼんやりと思えば癖のように類似点を探してしまって、苦く笑って下らない思考を断ち切った。


「散歩の途中で見つけてのう、気分はどうかな、優れないのであればお家の人に電話をして――」


顔に出ないように出ないようにと、必死に取り繕って首を振る。
彼の厚意が、ただただ痛い。
本当にもう大丈夫ですからとタオルケットを畳んで向き直れば、年の功か彼の人柄かは分からないが一瞬の間の後柔らかに微笑んでそうかと言ってくれた。
それでももう少しゆっくりしていけばいいと残された言葉に拒否をすることはできず、また苦く笑うしかなかった。
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