橙色の夢
夕暮れ色が青い空に浮かぶ雲を染める。
麦茶の注がれたコップはとうに空で、中で溶けた氷がかさを増していた。
「――有難うございました」
「いいや、子供は遠慮なんてするもんじゃあない。気をつけて帰りなさい」
いつぞやの紫陽花の匂いがした門の前で、井岡洋三と青波が手を振る。柔らかな香りが、やはり鼻腔をくすぐっている。
これはきっと、幸せの匂いなのかもしれない。
今まで気付かなかっただけで、本当はごく当たり前にあったものを、今更に一つずつ知っていく。
夕暮れの色の切なさなど、昔から知っていたのだろうに。
最後に頭を下げて、それから踏み出した数歩先で、そうならなければいいとどこかで願っていたことにでくわした。
「……名字?」
お帰り兄ちゃんと可愛らしい青波の声が、名前の声を隠す。
詰めた呼吸の行き場は、どこにもない。
「……部活…は、まだだったっけ……」
ええと。
それらしく言葉を探すふりをしながら、頭に夕暮れ空ばかりを映している。
彼の短い髪が橙に染まるのを見つけると、ふわりと土の匂いを嗅いだような気がした。
「なんで俺が」
突然前後の会話を無視して放たれた声につられて見上げれば、巧は彼女の背後に居る彼らを見ていた。ふっと背後を振り返れば、洋三は穏やかな笑いじわを刻んで手を振っている。
首をかしげて間もなく、じゃりと砂を踏む音がした。
視線を前へと戻せば、巧の背中が飛び込んでくる。
「行くぞ」
どこにと、思わず突いて出そうになった言葉を飲み込んで、もう一度振り返ってお辞儀をしてから先を歩く彼の半歩後ろに走り寄った。
「……うちになにか用でもあったのか」
「……ううん、たまたま――……気分が、悪くて」
嘘を言うことも、無意味だろう。
どのみち彼の帰る場所はあの家だ、今ここで言わなくてもその話はあがるだろう。
彼は、空を見ていた。
野球をしているときも、授業を受けている時も、空ばかり、見ているのかもしれない。
――太陽が少しずつ屋根瓦に近づいていく。
光を跳ね返す瓦の眩しさに目を細めて、息を吐いた。
「ごめんなさい、送ってもらって、」
「別に」
降り落ちた沈黙を埋めるように、蝉の声が響いた。
ワイシャツのボタンを、一つ外す。この息苦しさを、彼も感じているのだろうか。
太陽が沈むたびに、空気を奪っていってしまって、そうしたら、家に帰る頃には窒息してしまう。
大きく息を吸った。土の香りが、した。
「……もうすぐ、夏休みだね」
日差しが痛い夏が来る。
蝉の声はうるさく、夕方にひどい雨が降る。
暑さに耐えられずに冷凍庫を漁って、夜の寝苦しさに目を覚ます。
そんな夏が、くる。
一人で、その熱と冷たさに溺れながら。
「どっか行くわけ?」
「どこも行かないだろうなあ。そっちは、野球?」
「さあ。一人じゃキャッチボールもできないし」
巧は相変わらず鋭い目を、空に向けながら話していた。
何を考えているのだろうなとは思うけれど、どう言葉尻を捉えても、彼の中身を推し量ることはできない。
わかりづらい人だというよりは、分からせるつもりのない人だと知る。
それなのに、息も苦しいのに、
「豪がいるじゃない」
「どうだかな、何せ、大事な一人息子だからな」
豪が、大病院の一人息子らしいというのを聞いたことがある。バッテリーである彼らがそれを知らない訳もなく、おそらくは無意識の皮肉だろう。
彼がそんなふうな言葉を選ぶことが珍しくて、わずかに持ち上がったまぶたを睨むような視線が落ちてくる。
彼は柔く口を閉ざして、それから空を見るのをやめた。
「お前は、矢島と仲がいいんだろ」
足元の影が長く長く、伸びていく。
彼の白いワイシャツに、残像のような赤みが反射する。
ずきりと、こめかみが痛んだ。
▼