声も、顔も



夕飯を食べて、そうして、棚に仕舞いこまれていたアルバムを取り出した。
ずっと逃げていた。これだけはどうしても、開けなかった。
両親が海外に行った話なんて聞いたことがない。岡山になんて越してきた記憶はない。覚えのない世界軸の中で、これだけは、確かに存在している事実だけが載っているような気がした。どちらかの自分が否定されるようで、過去をめくる手は進まない。
未だ表紙をめくることすら叶わず、ただ手を添えるばかりで、どうしようもできなくなっていた。
――ここに来たばかりの時に、彼らに出会えたことは幸せだったのかもしれない。ただ一人ぼっちで学校に進む勇気などなかっただろう。ふたりがいたから、知らない世界で馴染もうと決められた。
穏やかに過ぎていく時間は長すぎて、暗い気持ちを引き連れることも多かったけれど。
授業を抜け出したことも、階段で話した時間も、夕焼けに染まる髪を見上げた景色も――。
なんだか、記憶の中を占める姿に、彼ばかりがいて笑った。


「――よし」


ハードカバーの表紙に指を滑らせる。
めくりあげたページに写真を挟む厚みはなく、どれだけページを送っても、ただまっさらな白紙のページが重なっていくだけだった。
――この世界は、偽物だったのかもしれない。
紫陽花の匂い、蒸した風の温さ、白球が跳ねる音、グラウンドに響く笑い声、名字と呼ぶ声。
偽物、だったなんて、思いたくはなかった。
目の淵から涙がこぼれ落ちた。ぱたりぱたりと白紙のページに染みを作っていく。
灰色の染みが広がっていく。ちかちかと、目の端で何かが煌めいた。


――車のヘッドランプに似た光だと、思った。


瞬きを一つ。呼吸を一つ。身体が浮上する感覚。世界が光で真っ白になっていく。
そうして、収束していく光。断続的な機械音が鳴り響く。鼻にかかるわずかな風。温かな布団。
瞬きを一つ。呼吸を一つ。身じろぎする身体が重い。ゆっくりと開いた視界の先で、白い天井を見た。


「……名前」


懐かしい声。なんでそんな事を言うのと泣き散らした声とは程遠い、掠れた柔らかい声。白い天井を遮る影から、水滴がこぼれた。


「……、おか、さ、ん…?」


ひどい耳鳴りだった。窓の外の空は突き抜ける青色で、ポッカリと浮かぶ雲は、夏の模様をしていた。
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