青空の行方



八月も終わる頃、名前は最後の診察を受けていた。
トラックにはねられた後、半年ほど昏睡状態が続いていた身体は思いのほか無事で、ぶつかった右半身に傷跡が残りながらも、変わらず生きていた。
脳も機能障害もなく、八月末、退院した。
入学式から行くことの叶わなかった高校は進学校だったので、そのまま辞退してしまった。父の転勤ばかりだった仕事も落ち着き、最後の住処である岡山についていくということを決めたからだ。
十月から岡山の高校に編入し、家族で一緒に暮らしていく。
以前の名前であったらきっと、東京の学校に残ると言っていただろう。もう引越しなんてうんざりで、ついていきたくもないと駄々を捏ねて。
――死んでしまえと言った言葉は消えてはくれない。きっと、あの時の母の心は血を流し続けていて、今も傷んだままかも知れない。そうであれば、これ以上傷口をこじ開けていくことなんてしたくはなかった。それは父や母に合わせて決めたことではなく、家族として生きていきたい名前が決めたことだった。


「お母さん、ちょっと出かけてくるね」


引っ越した先は、岡山の新田市という場所だった。なんて奇跡だろうと笑いもした。
あの半年間は偽物なんかではない。たとえ、あの世界とこの世界になんの繋がりがなかったとしても、名前は覚えている。

竹林を抜けて長い階段の神社の前を通り、誰かの笑い声がする見覚えのある家を過ぎて田園風景を眺めながら新田東中を横目見る。放課後のグラウンドには野球部の生徒がただひたすらに、白球を追いかけていた。
そこに見知った姿はない。
朝には風紀委員が待っている正門から、セーラー服の生徒が集団になって帰っている。ふいに上がった視線が交錯する。気の弱い彼女はすぐに目を伏せて、手元の問題集を持ち上げた。


「奈美ちゃん、この問題なんだけどね――」


グランドを見やった名前の背後で、参考書を広げて歩いている彼女たちは、もう三年生になるのだろう。振り向くことは、できなかった。
――涙は、こぼれなかった。
空が目に痛いほど青すぎて、雲は橙を纏って色づいていて、風は温いほど湿っていた。
通り過ぎていく生徒の声は、記憶にあるものよりは声変わりしていた。それでも、懐かしいと思うほどには、まだ記憶は鮮やかすぎている。

もう、帰ろう。

帰れなくなってしまう前に、通う高校を一目見てから帰ろう。
フェンスから手を離して、グラウンドに背を向ける。打ち上がった白球の音が、高く響いた。


「……名字…?」


走れ走れと叫ぶ少年の声に紛れそうなほど、小さな音だった。
記憶よりも随分低い音。気を抜けば、風にさらわれてしまいそうな音。
振り返れば、また一段と背の高くなった原田がいた。


「ーー久しぶり」


隣に、永倉の姿はなかった。彼は一人、そこに立っていた。


「なんで、」


まるで幽霊でも見るかのような目がおかしくて笑ってしまえば、不機嫌そうに眉間にシワを寄せた。その表情は、あの頃と少しも変わっていなかった。

言えなかったお願いがあった。彼の焦げ付いた白球には触れることも叶わなくて、それでも、グラウンドにいた彼を追いかけていくうちに、なんとなく考えていたこと。


「――あの、キャッチボール、してくれませんか?」


蜃気楼のような夢だった。夕暮れに馴染んでいくような世界だった。誰も覚えていない世界でも。それでも。
原田巧が見つめていた青い空は、確かに、この場所に繋がっていたのだ。
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