おぼろに哭き雨
一年二組の教室は賑やかで、まだ少し居心地が悪かった。
そう感じるのは少なからず自分が中学校課程を卒業したというのも含まれているのだけれど、どうにも自分だけが浮いているような気がしてならなかったのだ。
女の子の笑い声も男の子の騒ぐ声も、すべてが朧でひどく遠い。
――暑い。
窓から差し込む日差しが容赦なく左腕を焼き付け、思わずワイシャツの袖をめくった。
ガラララ、と音を立てて始業五分前のチャイムと同時に滑りこんできた生徒、原田はむしろ清々しいくらいの表情で自分の席に腰を下ろしていた。声なんてかけるつもりはあまりなかったのだけれど、入学早々職員室に呼び出されたわりになんの苦さも浮かべていないから、つい。
「…なにも言われなかったの?」
首を後ろにひねり声をかければ、彼は机に頬杖を突いてたった一言。
「なにも」
名前は思わず吹き出して、風紀委員による放送にまぎれて呟いた。
「職員室、巧でも緊張するんだね」
しっかりと聞き取れたようで原田はむっと顔をしかめると、何かを言いかけてやめた。
その瞬間二組の違反者数が読み上げられ、生徒の中から笑いが漏れた。ぴくりとつり上がった眉の理由など、わざわざ聞かなくても想像に難くない。
彼女はもう一度小さく笑って、頼りなさげに入ってきた担任を見上げると座り直した。
授業の終えた開放感に張り詰めていた空気が一気に弾け飛ぶ。部活へ向かう明るい笑い声が廊下に響き懐かしさに心臓が高鳴った。
少しの嬉しさと切なさに歪んだ口元を隠すように名前が机の上に鞄をおいたとき、その声は響く。
「よっ、ますます仲良しだね。見つめ合っちゃって」
中学生男子というのは、どこの時代、地域であってもやはり大して変わりないようだ。
彼女はその声がかけられた相手を知っている。
今朝ホームルームでも同じようなやりとりがなされていたからだ。
教室中にあがる忍び笑いと好奇の眼差しに、自分がその中に放り込まれたわけではないのに、ないからこそ腹が立ち、名前はわざとらしく大きな音を立てて鞄のチャックを開けた。
一瞬周囲の人の視線のみが彼女に移り、当の本人が第三者に呼ばれたことによりその凍った空気が和らいだ。
「行こうぜ、巧」
振り返れば、釣られてなのか親指をあげる彼がいた。
「名字、さん?」
「はい?」
原田とも永倉とも、教師でもない違う誰かに名を呼ばれることの違和感が拭えず、心の中で小さく笑う。
まだ騒がしさの残る廊下に踏み出した足を引き、もう一度教室の中に戻る。
くるりと反転すれば、黒く短い髪が陽光にきらめいたのが見えた。
「矢島さん?」
そこには、今日なにかと教師陣に狙われていた風紀委員の矢島繭がいた。
彼女は困ったように眉をさげて、あの、とかその、とかと言葉を濁しそして名前を見つめ直してはにかむ。
「あの、あ、繭でええよ。あのね、」
「うん?」
言葉が舌の上に乗っかり弾けようとした瞬間、背後から声が上がった。
繭、と聞こえた声に彼女は反射的に奈美ちゃんと答え、それからはっとした顔になると肩にかけた鞄の持ち手を握りしめて頭を垂れた。
「っごめんなさい、やっぱりなんでもない。またね名字さん」
するりと脇を抜けていく彼女の後ろ姿を眺めながら、名前は再び廊下に足を踏み出した。
春独特の霞がかってぼやぼやとした校庭の景色に名前はふと足を止めた。ここに来る前の中学時代は室内競技であるバドミントンに放課後を費やしていた。
だからといってまたこの学校で部活に入ろうという気はどうしても起きず、こうして初めての帰宅部というものを体験しているのだが。
体育館の、あの場所にはない音が、景色が、ここには溢れている。
グラウンドで走るたびに立ち込める砂埃に、テニス部のボールがコートで跳ねる音、バットが白球を打ち返す金属音に馴染みのない音ばかりで、少しだけ胸が苦しくなる。
青春だななんて内心笑えば余計に切なくなって、止めていた歩みを大股で進み始めた。
ふわりと香った春の匂いにまぎれて、湿った雨の匂いが流れてきた。
「――泣き雨」
ぽつり、ぽつり。
頬に、まるで涙のようにかかる細い雨は青い空からこぼれ落ちるように、彼女が校門をくぐる頃には路面に濡れた跡も残さずに消えてしまっていた。
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