惑い馳せて



三時間授業の後給食と、今日はいつもより早くに終わった。だからといってやることもなければしたいこともなく、いつものごとくなよとした草薙にさようならと挨拶を済ませてもう一度席に着いた。
いつまでも小学生気分の抜けない教室は騒々しく、机の合間を走る数人の生徒を横目見ながら読みかけの小説の表紙をめくる。
教室に誰ひとりとしていなくなってから帰るのも、たまにはいいかもしれない。
夕暮れに染まり誰もいない教室に残るのは、嫌いじゃなかった。とはいっても今日はあまりに下校が早すぎるので夕暮れも見ずして帰宅となってしまうだろうけれど。
文字の羅列を目で追っていくうちに、周りの音が消えていくのがわかった。
するりと黒の印刷文字に吸い込まれていく。
ぺらと次のページをめくろうとしたとき、どんと肩に何かがぶつかる。
びっくりして思わず投げ飛ばしそうになった文庫本を抑え、早鐘のような心臓を掴む。
――ちょうど主人公が何者かに背後から狙われるという緊張するシーンと相まって、完全にのめり込んでいた意識が勢いよく現実に引き戻されてしまった。
振り返ればそこには鞄を担いだ原田がいて、彼も同じく少し目を見開いて、


「あ、ごめん」


名前は二、三度目を瞬かせて笑った。彼はなに笑ってるんだとでも言いたげに眉をひそめて、鞄を背負いなおす。
走り回っていた生徒は疾うにいなくなり、乱れた机と原田と数人の生徒だけがいた。


「なんか、ううん。なんでもない」
「あっそ」
「うん、ごめんね。部活がんばれ」


彼女がまた笑って手を振れば、ユニフォーム姿の原田は視線を前に戻し右足を一歩踏み出す。
相変わらず素っ気ない、なんて思いながらその背中を眺めていれば、彼はふと立ち止まり、向き直る。それから彼にしては珍しくすぐに用件を言わずに、何か言葉を探しながら呟くように言った。


「……なあ」
「ん?」


小説を机の上に置く。
ガラララと奥のドアが盛大に開かれ、女子のグループがひとつ帰った。その音に思考は途切れ、原田はかっと僅かに目元を赤くするとまた踵を返した。


「…あ、いや、なんでもない」


調子が、狂う。それは本人が一番心の奥で思っているだろう。
名前はしかめっ面をする彼を見遣り、息を短く吸った。


「…認めたくなくても、納得できなくても、それが正しかったりどうしようもなかったりすることって、あると思うよ」


肩が一瞬、気のせいかもしれないけれど震えたような気がする。
原田が何を言いたかったのかなど皆目見当もつかないけれど、恐らく、永倉豪と関係があるのではないのだろうか。


「…意思を貫くことは、大事だと思う。でも、自分が思ってることを黙ったままにしちゃうのは、伝わらない。――……と、私は思うのです」


何を知っているわけではない。むしろ何も知らないし、たかだか入学前に偶然出会っただけの名前と彼らとの間柄だけだが、なんとなくそんな気がしたのだ。
長いようで短いような沈黙が流れる。
彼は振り向くこともせず、かといって立ち去ることもせず、ただ無言で突っ立っていた。


「…、部活。遅れちゃうよ」


ああ、と短い声が聞こえた。ふらりと歩き始めた背中は、それでも真っ直ぐに伸びていた。





――ばかか、おれは。
彼女が原田自身のことを「巧」と呼んでいるだけであって別に仲がいいわけでも別段よく喋るわけでもないのに。
いったいあの時なにを言おうとしたんだろう。
なにを、言って欲しかったんだろう。


(…面倒臭いな)


どうでもいい、とにかく今は、ただあのミットに己の全部を吐き出して投げてしまいたかった。
彼女の言葉が、頭の中で流れる。
知ったような口を、とも思ったし何がわかるんだとも思った。
けれど間違いなくそんな励ましや慰めじみた言葉を、あたかも願っているような、そんな口調だったというのは自覚している。

情けない。

他人に答えを聞いて、どうしようってんだ。
自分で考えなければ、自分で出した答えでなければ、納得できるわけがないのに。
原田は下唇を強く噛んだ。
苛立つ。何よりも自分自身に。


(…でも、)


あの声は、練習が終わったあとの冷水のように。心地よかったんだ。
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