未来はいつも
清水屋の戸を開ければ、朝餉の支度を始める女中が釜の前に立っていた。
お客さんかいと手を拭いながら奥から女将がやってきて、人を探していると言えばどんな人をと愛想のいい顔で受け応えられる。土方を、と言ったところでもしかしたら嘘をつかれる場合があるかもしれない。一瞬の思案ののち、背ほどの髪を後ろに結わえた薄紅の着物に白い袴を履いた少年だと告げれば、それならばと女将は見当をつけて引き下がる。他の女中からこんな朝早くから一体、と伺うような眼差しに、用向きがあってといえばそれ以上は聞かれなかった。
式台に足をかけながら目的の人物を待っていれば、ひどく重い足音が奥から響いてきた。支えるような小さな足音が混ざり込んでいて、首を後ろに捻って振り仰ぐ。
――記憶よりも随分、窶れた顔をしている。何となく、彼も変若水を飲んだのだろうなと思った。化物同士だから分かるのかと思えばくっと笑う他なく、目の前に立っている土方は何とも言い難い表情を浮かべていた。
「おはようございます、土方さん。起こしちゃいました?」
「……こんなとこで、何やってんだ、お前」
両膝に力を込めて立ち上がる。身軽そうなふりをしたところで、土方は目敏く気がつくだろうことは想像がついて、それにも腹が立った。
刀に手首を置いて、彼の足先から脳天までを睨みつけた。満身創痍であることは言葉にされずとも分かる。でなければ宇都宮城をとっくに取り返しに向かっているだろう。
土方は何度か瞬きを重ねてから、重々しそうに「彼奴らは」と言った。
「陽月は死にました。名前も、もう殆ど動けない」
「…そうか」
そんな、と悲鳴に似た声をあげた千鶴に、変わらないねと呟いたのは皮肉でも何でもなかった。今まで多くの死を見てきただろうに、彼女はそれらを仕方がないと慣れるようなことはしなかったのだなと思えたからだ。
「…外に出るか。ここじゃあ何かと話がしづらい」
「そうですね」
ずり、と引きずるような彼の足に一瞥をして、向き直る。戸を開ければ既に空は白み始めていて、陽射しが肌を刺す不快感に目を細めた。
宿の裏手に回り込み、壁に背を預けた土方は腕を組むなり沖田を睨みつけた。
「それで、用ってのは――」
「近藤さんを、見捨てたんですか」
彼は驚くでもなく、悲しむでもなく、淡々とした声音で「…近藤さんか」とこぼした。沖田が何のためにここに来たのか、初めからわかっていたような口振りだった。
「近藤さんは新政府軍に投降した。最期は斬首に処せられたそうだ」
――知っている。そんなことはもう、疾うに聞かされた。その裏側にあった経緯も、聞いた。
近藤は誰よりも土方を信頼していた。沖田でも原田でも永倉や藤堂や齋藤、山南よりも。試衛館時代の、新選組として進んでいたあの頃にいた誰よりも。
だからこそ、許せなかった。土方であれば近藤を救う手立てもあったのではなかったのかと、土方だからこそ何かできたのではなかったのかと。――近藤が誰よりも信じていた男だったからこそ。その、恨みがましいほどの信頼を無碍にして。
堪える必要のない激情がとぐろを巻く。飲み込みかけていた納得など、もういらないのだ。目の間にあの土方がいるのであれば、ぶつける他に手はない。
彼の胸倉を勢い掴みかかった。千鶴が背後で「沖田さん!」と左肩を止めにかかったせいで、顔を歪める激痛が駆け抜けて右手を離しかけるも、その襟元を握り直す。乱れた襟から血の滲む包帯が見え隠れしていた。
羅刹だというのに血みどろで、それが尚更今幕軍が置かれている状況を表しているようだった。
「――あんたがついていながら……っ何で、近藤さんが投降したんですか!! どうして助けなかったんです!? あんたなら、土方さんならできたはずだ!」
「できなかったんだよ!」
土方の手が、今度は沖田の胸を掴んだ。
ぐっと強い力で胸倉を引き込まれて、病人のような青い顔が顰められるのがよく見えた。この人もこんな顔をするのかと、恐らく初めて知った。
「俺は助けたかった、助けようとしたんだよ!! 好き好んで近藤さんを見捨てた訳じゃねえ!」
分かっている。そんなこと、もう誰に言われなくとも分かっていた。
「それでも、近藤さんは死んだじゃないか…」
死んだ人間は帰らない。もう休んでいいと笑いかけてくれた近藤は、あの甲府の一件からずっと責任を感じていたのだろうか。羅刹として殿を務め、近藤に勝ち戦をもたらすことができなかったのは剣でありたい沖田であったというのに。沖田には何も言わず、塞いでいたのだろうか。そんなことすらも、もう聞く術はない。
――明確に、疑うことなく、土方の所為であったのなら良かった。
拳を振り上げる。土方は避けなかった。
ガツ、と派手に拳と骨がぶつかる音がした。土方はその場に頽れて、唇でも切れたのか血の混じった唾液を地面に吐き出した。
「沖田さん! 土方さん、大丈夫ですか…!」
「拳一発で勘弁してあげますよ。…別に許すわけじゃないですけど」
膝をつきながら、彼は沖田を――睨むような鋭さを捨てた眼差しで見上げていた。
「近藤さんは、俺たちが逃げる隙を作るために、自分から殺されにいくことを選んだんだよ」
「…知ってますよ。あの人がどれだけお人好しだったかなんてことくらい」
諦念か、悔恨か、後悔か、悲壮か、憐憫か、それをどういい表すべきか分からない。けれど、土方の声が聞いたこともないほどに震えていたのには気がついた。それが、何だという。いつもいつも隣に立っていた、立つ事を許されて、そうして身を任されあっていた土方に今更手を差し伸べろというのだろうか。
近藤は笑うだろう。らしくないなと言うのだろう。分かっているよと、背中を叩いてくれるのだろう。
「…これから、どうするんですか?」
「近藤さんに新選組を託されたんだ。戦いを放り出すわけにはいかねえよ」
千鶴が土方の脇に座り込んで肩を差し出した。
彼女もそういえば人ならざる者であったなと思い出す。――少しだけ、肩の力が抜けた。
彼女は最後まで土方について行くのだろう。
土方さんらしいやと息を吐いて、二人に背中を向けた。お前はどうするんだと珍しくそんなことを聞いてきたので、秘密ですよと半身を翻して振り返ってから目を細める。
それから、澄んでいく空を視界に映して約束を一つ、思い出した。
「山崎君が、最期までお供できず申し訳ないって言ってましたよ」
「……そうか」
――人は死ぬと、何処に行くのだろう。
もうこの二人には会うこともない。これが最期だ。
死んだ先の未来の話。途方もなく透明で、果てのない未来。
名前は、その答えを作りたいのだろう。
「……また何処かで」
二人の驚いたような顔を最後に、沖田は振り返らずに歩き始めた。
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