今でも鮮明に覚えている。
東京体育館のあの高い天井。眩しい照明に、所狭しと並んだ観客席。誰彼から発せられる熱気。身長を越すネット。歩くたびにシューズのソールが甲高い音を立てていた。見渡せば、同じユニフォームを着ていた仲間。もう、半年以上も前の話だ。
あの空気感はどこにもない。隣には澤村も東峰もいないけれど、それぞれが違う場所で進んでいるはずだ。
彼、菅原孝支は教育学部のある県内の大学に進学していた。澤村も大学へと進学し、東峰は東京のアパレル系に就職した。デザイナーになりたいんだ、と伸びた髪を掻きながら、笑っていたのも覚えている。時間にすると半年なんてものは短いはずだった。一年も経っていないというのに、あの体育館で感じた熱量は鮮烈で、それでいて日に日に褪せていっている。
やらなければならないことは膨大で、それなのにまだ烏野高校に通っている自分がいる。畳の敷かれた少し広い部室。目の前にある体育館。ソールの滑る音。耳に残っていて、そこに、自分がいる気がしている。
「あ、烏野の人」
今日最後の授業も終わり、書き散らかしたルーズリーフをバインダーに綴じてカバンに仕舞っていた時だった。すぐ脇の通路から、女性の声が弾けた。
このスポーツ心理学の授業は教育学部以外は選択制で、他学科の知らない学生も多かった。春高バレーの全国まで行った高校だったとしても、そもそもバレーに注視している人は多くはなく、ましてや高校名まで言い当てられたことはこれが初めてだった。その声に弾かれて見上げれば、見覚えのない女性が立っていて、思わず呆ける。
彼女はそんな菅原に茶色がかった胸元辺りまでの髪を揺らせ、口元に手を当てて苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい。春高の県代表決定戦、仙台の体育館に見に行ってたから、思わず声かけちゃった」
「へえ、よく覚えてんなあ! バレーやってたのか?」
「んー…私はやってなくて、」
本当に思わず声を上げてしまったようで、煮え切らない返答に少しだけ小首を傾げる。バレーのプレイヤーだったわけではなく、高校の応援でといった風でもないようだ。誰か知り合いでも出ていたのだろうか。烏野の対戦相手だったのであれば、相手は必然的にリーグには上がれなかったということになる。そういう気まずさがあるのかもしれないと思ったところで、彼女は頬を人差し指でかきながら、やはり浮かべたのは苦い笑いだった。
「及川徹って、知ってる? 青葉城西の」
青葉城西は烏野にとって突き崩しがたい相手で、そこにいたセッターであった及川は影山の先輩にあたる人だ。何かと突っかかっては闘争心を燃やして、それでもあの人は遥か高いところにいると、影山が怖いほどに尊敬じみた眼差しを向けていた。
知らないふりをする必要はないので頷いてみせれば、彼女はその及川のいとこなのだといった。
「いとこかあ! じゃあ君も青城だったのか?」
「ううん、私は違うとこ。あ、私名字名前」
彼女――名字はトートバックを肩にかけ直して、数段上った上にある扉を見上げた。次の授業を受ける学生たちがちらほらと入ってきていて、菅原もカバンを持ち上げて一先ず教室を後にした。
「えっと、ごめん私貴方の名前知らなくて、」
「俺は菅原孝支、烏野の皆にはスガって呼ばれてた」
「スガさん…あ、スガさんね! 白鳥沢戦で審判に怒られてたね」
「あれは! みんなちょっと動き硬かったから、こう、なんというか、解そうと思って…!」
よりにもよってそんなところをピンポイントで思い出した名字は、悪戯っぽく笑っていた。ふと及川もチームメイトにそんなふうに笑っていたような記憶が思い起こされて、ひどく懐かしい気持ちに襲われた。この気持ちは、少しだけ痛い。懐かしいものになってしまったということを自覚的にさせるから。
廊下を目的もなく歩きながら一瞬だけ黙り込んでしまった菅原に、名字は落とした声音でひっそりと呟いた。
「――スガさんとか、徹とか、牛若って呼ばれてたあの人とか、みんなバレーしてるときってすごくこう、自分とは違う世界線の人なんだろうなあって思ってて」
日向よりも低い身長の彼女を見下ろしても旋毛しか見えない。少しだけ俯いているのか、白い項が長い髪の隙間から覗いていた。
「前に白鳥沢に負けた時も相当だったけど、烏野に負けたときが最後の大会だったから、試合終わった夜とかすごく落ちてて…あ、えっと、別に烏野がどうってことじゃなくて、えっと、」
対戦相手だった烏野の、しかも試合にも出ていたセッターを前にして何を言うつもりなど毛頭ないのだと彼女はばっと顔を上げて手を交差させながら、へたりと、眦を細めていった。
「――ずっと、徹は私とは違う人だと思ってたから、本当はやっぱりそんなことなかったんだって知れたから、だから、ありがとう」
――なんとなく、想像でしかないけれど。及川は影山のことを厭がるような顔をしていた。本心なのかどうかはさて置き、常に両手を広げて受け入れられる存在ではなかったのだろう。影山という天才的なセッターにずっと後ろを追いかけられ続けるプレッシャーに向かい合って、ただひたむきにバレーを続けていく彼の気持ちが、少しわかる。毎日毎日、トスを上げるというたった一つの動作に脅かされるストレスは自己を叩き上げていく後押しでもある一方、休むことを許さないのだ。
ネット越しの及川は、総合力の高い優秀なセッターだった。それに比類する練習量は、想像をはるかに超えるものだっただろう。そんな姿を見て、彼らは自分とは違うのだと思う気持ちも分かる。
「――あのセッターは、なんというか、影山…あ、うちの後輩で、北一での後輩だったらしくて、そいつに対してだけはやけに大人げなかったよ」
「そう、なんだ」
「だから、名字さんが思ってるほど、バレーやってるあいつは天才完璧人間とかじゃないんじゃね?」
いとこだという彼女と及川の関係性など知らないが、恐らく、バレーをしている及川をネット越しに見ていたのは菅原の方が長いのかもしれない。あんなふうに影山に対して揺れていた及川を、自分とは違う次元の人なのだと言い切って距離を置いてしまうのはなんだか物悲しい。
そう言って笑ってみせれば、名字は目蓋を持ち上げて驚いたような顔をして、それから少しの思案を挟むように目を伏せた。
廊下の大きい窓から差し込む晩夏の日差しが肌を刺す。あの体育館できっと今、蒸すような暑さに喘いでいるのだろう。日向の助走、跳ね上がり、ボールが床に叩き付けられる音が今でもすぐ傍で聞こえる。
「…そっか」
トートバックの紐を握る彼女は、菅原を見上げて顔を綻ばせた。
「ありがとう」
名字はその後、授業があるのだと急いで走っていってしまった。
及川はどこかのチームでバレーを続けているのだろうか。同じバレーでも、周りにいる仲間は全くの別人で、あの空気感も戻らないというのに。
あの追走する日々に置いていかれている。烏野の全員でバレーコートに立っていた昂揚も充足もなく、それでも一日ずつ過ぎていく。遠くなっていく世界が、ただ漠然と怖かった。