吸い込む息すら違うと知った

私立青葉城西高校バレー部の主将でありセッターであった及川徹というその人は母方のいとこで、小さい頃から身近にいた誰よりも負けず嫌いな人だった。家がとりわけ近いわけではなく、バレーを選ばなかった名前とは時間もすれ違ってばかりではあったが、年が近いせいかそれなりに仲良くやっていた。その頃から近所に住んでいた岩泉一という幼馴染みとは、とくにバレーという共通項を得たことで、名前などよりもその二人でいることが多かったと思う。その関係性は少しだけ、羨ましかった。
中学までは同じ北川第一中学校に通い、そこで着々と身に着けていった実力。年相応にバレーに打ち込み、はしゃぐ彼の姿を見てきた。ただ、三年生になった時それが初めて崩れていったのだ。一年生として入ってきた影山という少年は、天才だった。天才で、それでいて勝利に貪欲でバレーが好きで、腐っていく及川に輝かしい目を向けていた。


『今の俺じゃ、白鳥沢に勝てないのに余裕なんてあるわけない!!』


あの日は丁度、名前も部活の帰りが遅くなっていた。バレー部が遅いことは知っていたので、及川たちもいれば一緒に帰ろうと思い体育館に向かっていた。途中で影山とすれ違い、体育館に入ろうと数段の段差を上った瞬間、そんな及川の声が弾けたのだ。俺は勝ちたいのだと叫び散らす彼の声を遮る鈍い音。


『バレーはコートに六人だべや! 相手が天才一年だろうが牛若だろうが、六人で強い方が強いんだろうがボケが!』


――思い返せば、ここからなのかもしれない。彼との間にあった境界線は、拭えない違和感となって現れてきた。
それから一人で帰宅した名前は及川が目に見えて変わったのを目の当たりにした。岩泉曰く、これで漸く吹っ切れたのだと言葉で聞いたときには、名前の知る及川徹は変容していた。いや、それはどこも悪くはない。なにも、彼にとってマイナスになる要素などどこにもなく、寧ろプレイヤーとしてより花開いていった。
彼は昔から知っていた及川徹ではなくなった。境界線はより高く、高く積みあがっていった。
ネットの向こう側にいる何者かに向かって日々を費やしていく彼の練習は凄まじく、ああこれが努力の人なのだと知った。努力をし続けることも一種の才能なのだと思う。及川は、そういう才能を持っていた。


『ええ、名前青城行かないの? てっきり一緒に行くもんだと思ってたのに』
『うん。もう徹の告白窓口飽きたし』
『なにそれ、初めて聞いたんだけど!』


名前は青葉城西にはいかなかった。
これ以上彼を見続けていると昔から知っていた及川徹という像が、全く別次元のところに離れていってしまいそうな気がして怖かったのだ。
高校三年間、及川とはそれなりに仲の良い"いとこ"に収まっていた。携帯に入る着信もメールも、普段の彼はこちら側の人だったのだと安心した。そんな付き合い方を岩泉は物言いたげな顔をして見ていたけれど、何も言ってはこなかった。
大会は見に行った。そこにいたのは知らない彼だったけれど、確かに、楽しそうではあった。努力をし続ける人の到達点は楽しいという気持ちになるのだろうか。それでも、彼は何度も白鳥沢に敗れた。牛若と呼ばれる強敵が崩せないのだと、何度も何度も練習に没頭していた。めげることなく折れることなく、バレーを続けていた。
それが初めて行き場を失ったのが、高校三年生最後の春高だった。


『明日の試合、絶対烏野が勝ちあがってくる』


烏野高校を相手にフルセット。勝つのだろうと思っていた。彼の並大抵ではない努力と精神力を知っていたからこそ、規格外の彼ならば勝ち上がっていくのだろうと思っていた。ところが、彼は負けたのだ。もう、次に向けて努力を積み重ねる必要はなくなったのだ。
――仙台市体育館からずっと、及川の背中が目に焼き付いている。岩泉のスパイクが跳ね返されて、それから、最後には床に落ちたボール。最後の挨拶で岩泉は嗚咽を堪えていたけれど、及川は泣かなかった。もう涙をこぼすことはないのかもしれない。
寄り道をしてから帰路を歩く空はすっかり陽も沈んでいた。家に帰れば、玄関に及川が座り込んでいた。


『…徹』


彼はすっくと立ち上がって、ちょっとだけ付き合ってよと言った。宛てのない散歩の間、彼は無言だった。


『……楽しそうだったね、今日も』


長身の彼の表情は、見上げないと分からない。横目で見れば、彼は泣いていた。
ぐずぐずの鼻を啜りながら、静かに泣いていた。そういえば、中学三年の最後の大会も泣いていた。あれから彼は変わっていってしまったけれど、この泣き顔だけは、あの頃とちっとも変っていなかった。
――境界線も深まり最早別の世界線の人だと思っていたセッターの及川徹は、何も変わらずここにいた。


『……ティッシュもってないや、私』
『…そういうとこ、女子力ないよねほんとに』


ぼろぼろと泣きながらも憎まれ口は健在で、袖口で何度も拭う彼の背中を叩いた。


『…明日は、見に行くの?』


最後の大粒の一粒を目の際から零して、及川は顔面を歪ませて笑った。


『……負けっ面拝みに行ってやろーじゃんか』


コート上に立つ彼の姿はどんな時だって姿勢よく前だけを向いて、笑っていることくらいしか知らない。観客席からは遠くて話し声なんてわからない。それでも、コートから出た及川はこんなにも後輩に対しても大人げなくて、女々しくて、口を開けば嫌味ばかりだ。


『…はじめ、ストレスで早死にしそう』
『はあ? 俺がこんなにも岩ちゃんに尽くしてるんだから、ストレスなんてどっから来るっていうのさ』
『そういうところだと思うよ』


――彼と同じ舞台に立つプレイヤーであれば彼の本当の姿もよく見れたのだろうかなんて、少しだけ烏野の人たちが羨ましかった。

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