とーる。
名前を呼ぶ声が覚束ない頃から隣にいたいとこの名前からの一本の電話が、未だに耳の奥で反響していた。
――ああ本当、自業自得だったなと笑う。小学生の頃からただひたすらに追いかけ続けていたこのバレーボールと岩泉と名前だけは、変わらないでそこにいるものだから錯覚していた。どんなことがあっても彼女はずっと隣にいるものだと思っていて、それは他人に冷やかされるような関係性よりももっと別の何かであると思い込んでいた。
名字さん、付き合ってるんじゃないんですか?
そんなふうに聞いてきた女の子たちの言葉を否定して、彼女たちと手を繋いで帰った時間。今にして思えば、なんていう言葉を使ってしまうには及川は綺麗な被害者なわけがない。付き合って欲しいという言葉に対して頷いたのは紛れもない自分だ。ただ、そうだ。名前の面影を、探していた。彼女との共通点を女の子たちの一端にでも見つければひどく安心したような、反対に苛立つような心持ちにあの頃は何も気付けないでいたのだ。
「今日の烏野戦、どうだった?」
久しぶりに岩泉からかかってきた電話は、数時間前に終わった青葉城西と烏野の代表決定戦の様相を告げていた。これで矢巾たちも引退だなと落胆した声に、ひとつひとつあの高校生だった頃の自分たちが終わっていくような感覚に瞼を閉じる。
吸い込んだ息は生温い。
「なーんかまた烏野に負けた気分」
『気分って実際負けてんだろーが――ああ、彼奴の話か』
「昨日、いや今日? まあどっちでもいいや! 電話があって、スガさんと付き合うことになったとかなんとか朝から電話される俺の身にもなってごらんよ!」
『知るか。お前がクソみてえなことしてるからだろ』
「ほんと岩ちゃんずっとそればっか言ってくるよね。あー否定できないからすっごい腹立つ」
中学の頃から彼は暗に告げていたというのに、今更になって気付くとは。中学三年の或る日に教科書の角で殴られたせいだ。確か相当に痛かったので分厚い地理だったかもしれない。いや、数学だっただろうか。名前は最後まで数学と格闘していたななんてくだらないことを芋づる式に思い起こされて、思わず乾いた笑いをこぼした。
「…まあ、でも」
彼女はおそらく、これからも変わらずに隣にいるのだと思う。その更に隣のはもしかしたら菅原が居座り続けているのかもしれない。そう思うと、今は付き合いたいとは思ってないけどだなんて見栄など張らなければよかった――どのみち、そういうふうに見ていなかったと振られただろうけれど。
「名前が幸せなら、それがいい」
『…女々しい奴がよく言う』
「ほんとそろそろ岩ちゃんのせいで泣きそうだからカッコつけさせてくんない?」
『まあ、お前は一生幸せになれないだろうからな』
十月の夜。エナメルを提げて歩いた帰り道を思い出す。
「――今のうちに及川さんのサインでも飾っとく?」
『ふざけんな、いらねえわ』
名前が幸せならそれがいい。
バレーばかりの及川の役目ではなかった。ただ、それだけだ。なにせ、親友曰くクソみたいなことばかりしていたからだ。
最後に悪態だけ吐けば、うるせえと容赦のない言葉で殴られた。
***
鏡の前で何度も確認した目尻はいつもよりパールのシャドウが煌めいている。目の縁を際どるローズブラウンに瞬きをこぼしては腕時計を睨みつけた。
家を出るには十分ほど早く、かといって床に座って落ち着いて仕舞えば気になることが増えていく気がした。やはりいつも通りにブラウンのラインを引いて終わりにすればよかったものを、つい先日化粧品売り場に並ぶ心惹かれてしまった深い赤の色をつけてみたくなってしまったのだ。
控えめにはしたものの、幾分か色味が増している顔面に唇を引く。もう直す時間もない。うーんと唸ること数度目に、携帯が震えた。
もうすぐ着くからと現状を報せるメッセージに立ち上がる。
鏡の前でシフォンのスカートを膨らませて気合を入れてから、玄関に並ぶショートブーツに足を滑り込ませる。
ドアを閉めて鍵を回したところで、名前とどこからか声が弾けた。振り返り、共有の廊下から階下の駐車場の方をみやると、ひらりと手を振る菅原の姿があった。色素の薄い髪を際立たせる黒に心臓が跳ねる。
こつこつと階段を下りながら心臓の音を数える。最後の一段を下りる前に落ち着かせるように吸い込んだ呼吸を、前の前にやってきた彼は何をしているのだと笑う。孝支君、と未だなれないたどたどしい言葉を唇の隙間からこぼすと、菅原は数度目を瞬いた後視線を空に移してからまた名前の顔を見下ろした。
「…なにか、変?」
「! 全然! いや、その、いつもと違うなというか、」
ウサギみたいで可愛いと素直に笑った彼の言葉に思わず下を向いた。これは予想外の事態だ。十一月も始まったばかりだというのに汗がじんわりと浮かびそうになって前髪を梳いた。
この間友達と買い物に行って、と弾む声のまま言い訳のような言葉をぐるぐるとした口調で話していれば、隣で小さな笑い声が落ちる。
「そか。ちょっと、優越感」
「? どうして?」
そろりと見上げた先で、菅原は僅かに唇を尖らせて、項に手を置く。
「んー、てことはさ、及川は今日の名前を見たことないっていことだろ?」
にし、と笑った顔にまた下を向く。
「……変なの」
「そーゆーもんです」
だって悔しいし。と最後に零した彼が何にそう思っているのかをはっきりと言葉にはしなかった。ただ、恐らくそこには及川の背中が変わらずにあるのだろうけれど、それはきっと、そうであってもいいものなのだろう。
するりと彼の骨張った大きな手が指を絡め取る。
孝支君。隣に並ぶ彼の名前を呼べば、菅原はどうしたと柔らかな眦を細めた。
天気いいねえ、と冷たい空気をいっぱいに含んだ日差しに笑う。
今日も明日も、その先も、二人の隙間を埋める糸はこんな温度で、こんな色をしているといい。いつの日かに褪せてしまったとしても、複雑に絡まってしまったとしても、その日もきっと、こんなに優しい陽だまりを作っているといい。おばあちゃんみたいだなと笑った菅原の声は、変わらずにこの距離にあるといい。
繋ぎ合った指を、ほんの少しだけ握り返した。