十月半ば。一年ぶりにやってきた仙台市体育館は現役高校生たちがひしめいていた。吸い込んだ空気に清涼剤の匂いが混ざっていて、いつだかの日向が言っていた「エアーサロンパスの匂い」なんていう言葉を思い出す。去年は、ここに烏野高校の控えセッターとして立っていた。彼らと同じように、オレンジコートを目指して。
「スガ、試合終わった後あいつらに声掛けに行こうか」
「だな」
隣に並んでいた澤村が、遠くにいた見慣れたジャージの群れを指さしてから二階席へと上がる階段に足をかけた。
今日の試合は烏野高校対青葉城西高校で、どちらか勝ち上がった方が、明日の代表決定戦へと駒を進める。相手も今日の試合で決まるが、恐らく白鳥沢になるだろう。牛若のいなくなった白鳥沢であっても、個々の強さがやはり抜きんでているのだ。
青葉城西は及川がいなくなったことで墜ちた強豪なんていう去年の烏野のような評判を受けているが、それでもここまで残っているのだ。この二校の注目度は高く、二階席に着くなりざっと見た雰囲気だと去年よりは席も埋まっているような気がする。
左手には烏野、右手が青葉城西の応援団で、弾幕の準備をする応援席の最上段に腰かける。
コートを滑るソールの音。ボールが弾む。誰かが踏み込む音。目の前にはいつも、眩しい照明とボールと、同じユニフォームを着た彼らがいた。
――ここで戦って勝って、東京まで行ったんだなあと胸に過った寂寥感を見透かされたように、携帯が振動する。
『はじめと体育館の二階席ついたよ』
名字はずっと、及川と岩泉を追いかけていた。応援団はそれぞれコートを挟んで反対席で、菅原にとっては可愛い後輩ではあるが彼女からしてみれば青葉城西の後輩の方が見慣れているのだろう。岩泉とそちらを応援してもいいかと聞いてきた彼女に、頷くことができないなんていう心の狭さを――持たないようにしながら笑ったのはつい一昨日の事だ。
「あそこにいるのってもしかして、名字と岩泉か」
正面の観客席の最上段に座っている二人の姿。向こうもこちらに気付いたようで、手を振ろうか悩んでいるような中途半端な名字の右手に笑う。
澤村が眼を瞬かせてから、何で一緒に見ないんだと首を傾げた。そういうことですよと言葉少なに一昨日の話を説明するなり、彼女の左手に抱えられている本のようなものに目敏く気付いた。
「てことはもしかしてあの本っぽいの、」
「んールールブック?」
「そりゃ、立派な役目がとられて残念だったな」
「まあ、先は長いので寛大な心で受け止めようとこれから思ってます」
「抱負かよ」
ははと笑った澤村が、まあお幸せにと背中を叩いたのでお前もなと叩き返しておいた。
「インターハイは俺一人だったから、全国は旭も来れるな」
「なんか桃太郎みたいだなそれ」
「褒美がないと来ないのかよ、お前らは」
呆れ笑ったような澤村の顔につられて笑う。
――あの熱量の中にはもういられない。それでも、隣には澤村がいて東峰も変わらずにいて、少しも変わらないバレーがそこにあって。烏野の人。そうかけられた一声がなければ今もクローゼットに押し込んだままのバレーシューズが、テレビの脇に転がるバレーボールがあったのかもしれない。ここにこうして繋がっているのは、きっと彼女がいたからなのだろう。
***
試合は三セット先取した烏野高校が勝利した。泣き崩れる青葉城西の三年生に、もしも今だったらなんと声をかけるだろうか。
撤収を始めた波に乗って、一階のメインアリーナの入り口に向かうととめどない汗をタオルで拭いながらスクイズを潰すように飲み込む後輩たちがいた。
「よ、決勝進出おめでと」
「スガさん! 大地さん! お久しぶりッス!!」
「おーッス、元気にしてたかァ」
あの日々から少しも変わらない後輩に、時間が巻き戻されるような感覚を覚えた。
一年生も無事何人か入部してくれたようで、目の前を飛び跳ねる西谷ももう三年かあと澤村としみじみとした会話をしてしまう。
「旭さんはやっぱ来れなかったんスね」
「まあ東京だからなァ、連絡したら、なんかもう感極まってた」
「東京でやっていけてんのかね、あいつは」
なんていう会話で今頃くしゃみでもしていそうだ。
そんな東峰を想像しながら、隣に並ぶ田中の頭に手を置いた。
「! スガさん! 頭! 頭!」
「いやー田中のこのショリショリ感! 一年寂しかったんだよなあ!」
「寂しがるとこそこっすか!?」
影山や日向、山口がちわっす、なんて変わらない面差しで挨拶をしてくるものだから、こんなのきっと隣に東峰がいたら泣いてしまうんだろう。月島も距離がありながらもお久しぶりですなんて頭を下げてくるものだから、勢い余って田中に置いていた手を彼の頭に乗せ換える。
「! 岩泉さん、それに名字さん!」
「飛雄君!」
影山の声に後ろを振り返ると、二階席から降りてくる階段に岩泉と名字の姿があった。彼女はひらひらと手を振って、それから岩泉を置いていくように一段飛ばしで駆け下りてくると、影山の前に立って「おがったねえ」なんてへらりと笑った。
それから澤村君も久しぶりと目を細める。
これも一昨日あたりに北川第一中学校出身であったという話を聞いて、高校に入った彼の正面には立ったことがなかったのだろうなと思うと、これももしかしたら感動の再会というべきものなのかもしれない。
二人の様子に日向が驚いて、影山の後ろから名前の前まで文字通り飛び出してきた。
「え、なになに? 影山の知り合い? 青城の人? 俺日向翔陽です!」
「及川さんの……彼女?」
「いとこ! えっと、名字名前です」
「大王様の!」
「あの人今なにしてるんですか?」
小首を傾げた影山に、彼女は天井に視線を向けた後、にこやかな笑みを浮かべた。
「秘密。気になるんなら、徹に聞いて」
――こういうところは、及川に似ているのかもしれない。影山の「全然、気になんないですけど、全然」なんてしかめっ面を挟んで笑う二人の姿が思い浮かんだ。ゆっくり後ろからやってきた岩泉が、頑張れよなんて彼に声をかける。
それから名字は思い出したように影山に向かって携帯を向けた。
「あ、そういえば徹からメッセージあるよ、飛雄君宛てに」
「いや要らないです」
「即答。言うと思った」
「というかなんで菅原さんたちと名字さん知り合いなんですか?」
左隣にいた名字を見下ろした。彼女もこちらを見上げていた。
「んー徹とはじめの幼馴染みの私がスガさんと大学が一緒で」
「その名字の紹介で岩泉のクラブチームに入って」
「「一緒にバレーやったから?」」
「なんスかそれ!」
お互いの間に、見えない隙間がある。
西谷と田中の声に、すごいハイテンション、なんていう名字がこうして烏野に交じることもなかったかもしれない。岩泉と出会わなかったらバレーは続けていなかったかもしれない。澤村とも連絡は多くはとらず、体育館に足を運ぶことさえ気が引けて、この熱量を羨んでいただけだったのかもしれない。
及川は世界の違う遠い誰かで、その隣に立つための理由を探して見つからなくて、疎遠にし続けたメッセージはまだ何処かで漂っているかもしれない。
目に見えない何かがある。誰かと縒り合って解れ合って絡み合って、そうして繋ぎ合ったその先に何があるかも分からないけれど。
「んー試合終わったし、なんか飯食いに行かねー?」
体育館の駐輪場で自転車を転がしながら、後ろに連なる三人に声をかける。
「俺和食」
「私中華がいい」
「俺はラーメンかな」
「そりゃ無理だべー」
誰かと繋ぎ合ったこの糸で、明日も日々が過ぎていく。
「はい、じゃーんけーん――」
鮮やかに、いつかは褪せていきながらも、それでも解けないように。
漠然とした未来でも、また何かに繋がっているのだと思う。そう、思う。