この不明瞭な胸臆が吐けない

※ 未成年の飲酒を伴う表記がありますが、法律上飲ませた側も店側も罰せられますのでご注意を。




たすけてほしい、なんていう言葉に押されて来たはいいものの、菅原はどうしたものかと足を止めていた。頭の中でいくつかのパターンを予想をしてみるが、相手は酔払いの集団なのだ。突然の第三者にどんな言い訳を吐こうか悩んだところで、この逡巡の時間すらもしかしたら名字にとって苦痛な時間になっているかもしれない。東峰ほど気は弱くないと自負しているが、多少なりとも躊躇う足はある。意を決して木目調のドアを開ければ、店員の大きな声が響いた。
その居酒屋は個室ではなく、入り口から入ればテーブル席が全体から見渡せるようになっていた。煤けた梁が視界を遮っていて、それらしい集団を見つけようとしたが学生と思しき集まりがいくつか見受けられて探しづらい。お連れ様ですかときょろきょろとする菅原に声をかけてきた男は、黒いエプロンを腰に巻いて小首を傾げて待っている。はいと頷けば代表者の名前を聞かれたが、そんなもの知るはずもないので適当に探すと言えば引き下がってくれた。
初めてこういう場に来たが、煙草と焼き物の臭いに思わず目尻が歪む。カウンターより右奥に引っ込んでいた座敷席が見える店内中程まで歩いたところで、誰かの声が弾けた。


「ス、あ、――こ、孝支くん!」


奥の座敷を見遣れば、男女四人ずつ交互に座っていたグループの一人が手を振っている。それは間違いなく名字で、彼女は茹でた海老にも劣らない真っ赤な顔でカバンを握りしめて、いとこが迎えに来てくれたからと早口に告げると立ち上がった。すると隣にいた細面の男が名字の腕を掴んだ。


「えーじゃあさいとこ君も一緒に飲めばいいんじゃない?」


けらけらと笑う集団に話す言葉の尽くを遮られそうになる。折角立ち上がった足が徐々に屈められて、名字の目が右往左往しながら菅原を映した。


「いや、もう帰らせてもらいます」


迎えにきた第三者が確固たる口調で告げた言葉に、面白くはないのだろうがここで押し問答を繰り広げる程に店員の目は厳しくもなる。それが分かるほどにはまだ理性はあるらしい。
式台の前まで近寄れば、やはり名字の目の前のテーブルには明らかにジュースや水ではない類のグラスが置いてある。彼女は前もって封筒に入れていた会計だけ渡すと、わりと確かな足取りで式台まで下りてきて少しヒールのあるサンダルを履いた。


「お先に失礼しますね」


背後で良くも悪くも様々な声を受けながらも、彼女は一切振り返らず菅原の背中を押しながら店の外まで足早に出て行った。
冷房の効いた部屋から外に出れば、温い空気を攫う風が頬を撫でる。店から数歩遠ざかったところで、声をかけようと振り向いた先に誰もいなかった。


「名字! 大丈夫か、吐きそうなら一旦どっかで休もう」


目線を下にずらせば、彼女は小さな体をさらに縮こませるようにしゃがんでいた。口元を押さえて何も言わない名字の背をさすってやりながら、自販機を探す。とりあえず水でも飲んで落ち着いた方がいい。今しがた出てきたばかりの店の外にあるベンチには歩けるようで、そこまで見送って少し先にある自販機で天然水ボトルのボタンを押した。もう少し遠いか見えにくいところの方が気も休まりそうだが、生憎駅前の通りの立地もあってベンチの類はなさそうだった。
キャップを空けてベンチで項垂れる彼女の前にしゃがみ込めば、赤さも通り越して真っ青だ。一口二口喉に水を流して、息を吐いた名字は生唾を飲み込んでから眉尻を下げて笑った。


「…ごめんなさい」
「いいよ全然、俺も家で何もしてなかったし」


店内での一挙手一投足に気力を振り絞っていたようで、一言発した後はまた声も上げなくなった。吐気と戦っているのだろうが、こういう場合は何が正解なのか分からない。彼女の家も知っていれば送っていくがそんな状況でもなさそうで、及川が宮城にまだいれば電話でもしたかなと現実逃避。彼女の隣に腰を掛けて、状態の回復を待つしかない。
少しずつ水を飲む名字を横目に、人の流れをぼうと眺める。酔いの波が収まったのか、彼女はゆっくり上体を起こして立ち上がった。


「もう、行けそう」
「ほんとか? 名字の家ってどのへん?」
「――バスで、ニ十分くらい」


バスで揺られたら確実に吐きそうだ。歩いて帰れば一時間とはかからなそうだが、今のままでは到底辿り着きそうにもない。
柔らかい風が彼女の緩く巻いた毛先をさらって、耳朶に下がるピアスが揺れる。
菅原は項に手をやって、ほんの短い思案を挟んだ後に他意はないという結論を飲み込んだ。


「ニ十分くらいなら歩けそう?」


不思議そうな青い顔で小首を傾げた彼女は、その動作に三半規管が刺激されたのかまた口元に手を当てて静かになった。


「なんなら負ぶってくか」


小さな手が左右に振られる。思わず笑いを零してしまったあと、躊躇いがちにシャツの左袖が引っ張られた。


「腕、かりても、いい?」
「こっちのほうがいいべ」


ポケットに突っ込んだ右の肘をゆるく曲げて、服を抓む指を肘と脇腹の間を通して前腕に置く。覚束ない足の支えにするなら支点は広い方がいい。彼女は小さくはにかんで、ありがとうと言った。

隣を歩く名字の歩幅は身長以前にやはり小さくて、時折側溝の段差に足を縺れさせるものだから負ぶってしまうほうが安心な気がする。
居酒屋から十分ほど歩いた辺りで、漸く彼女は顔を上げた。気持ちの悪さと眠気と綯い交ぜになった顔で、それでも笑おうとしている。


「サークルの先輩がね、人数足りないからって」


普段の、といってもまだ二回しか会って話したことはないが、彼女は確かに押しには弱そうではある。何回も言ったんだけど、と零して、俯いた。


「お酒飲むとあんまりだって、ちょこっと聞いたことはあったから、でも簡単には抜けれなさそうで、最初は誤魔化しながら飲んでたんだけど、本当、ごめんね」
「だから、気にしなくていいって。むしろ潰される前に呼んでくれて良かったし、またなんかあれば言ってくれれば力んなるよ」


そう言うと名字はゆっくりと顔を持ち上げて、立ち止まった。


「…スガさん、ごめんなさい」


大丈夫だと言おうとして、やめた。これが何に対する謝罪だったのかを図りかねた。空いている反対の手を握りしめて、俯きながら声が落ちていく。


「無神経なことを、いって」


右腕の僅かな重みも消えていく。地面にへたりつくように落ちていった名字は、ごめんなさいともう一度呟いた。
――クロゼットの奥のシューズ。来月には春高宮城県大会が始まる。アルゼンチンにまで行ってバレーを追いかける及川。何もしていない自分。
名字の前に背中を向けてしゃがみ込んで、腕を肩に回して引っ張り上げる。


「大丈夫」


微睡み始めている呼吸は、何故だか少しだけ泣いているように思えた。

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