携帯の画面におはよう、と綴られた文字。快晴の空を背景に見知らぬ誰かとのツーショットを送り付けてきた彼のメッセージに返す言葉は、名前の半日前を彷徨っている。
先週の、週に一度の授業以外、やはり菅原孝支という烏野の人には会わなかった。少なくとも同じ学部ではない以上、早々授業が被ることもない。だからどうのというような淡い思いも期待も持ち合わせてはいないのだけれど、彼は徹と同じコートに立った人だ。もう少しだけ話をしてみたかった。ただそれだけだ。
教室に入るなり、階段状に下がっていく机を見下ろす。グレーがかった髪は見当たらない。適当な席に腰を下ろして、バインダーから白紙のルーズリーフを取り出す。講師が来るまでの間携帯を触っていれば、後ろから声が上がった。
「さては講義中寝るつもりだべ」
振り返ればそこには菅原がいて、彼は隣を指差して座ってもいいかと笑った。
「思ったよりも結構端座ってんのな」
「そういう、気分だったの」
なんだそれと気の抜けた笑顔を浮かべた彼は、席を一つ空けて隣に腰かけた。後ろの机に折りたたまれている椅子は、クッション性が悪くて振動が直に伝わってくる。
「スガさんって学部どこなの?」
「ん? 俺、教育学部」
「あ、私看護だから、それじゃこの授業以外見ないわけだね」
教育学部とは選択科目の中でも片手で数える程の授業しか混ざらない。その数個のうちの一つしか履修していないのだから、当たり前だ。
じゃあまた来週だ、と笑えば、菅原は何かを思い立ってにししと笑った。
「番号教えてよ、ここの課題グループ系多いらしいし、そんときは宜しく」
「そうなんだ、ぜひぜひ!」
メッセージアプリの追加ボタンをタップして、画面読み取りを開く前に彼がその一つ隣のアイコンを指さした。近くの人と携帯を振りあうと連絡先の交換ができるというものだ。これやってみたかったんだよねと笑う菅原の顔はひどく幼く見えて、思わず吹き出してしまいながらも携帯を振った。ピコンと機械音の後に画面を見れば、菅原孝支と書かれたアイコンがあった。
「大学入ってから携帯変えたからさ、つい面白くて」
「わかる! あといつ画面割れちゃうか、はらはらするよね」
メッセージ画面に表示される新しい名前。あの及川が戦った相手と連絡先を交換したなんて言えば、少しは羨ましがるかもしれない。
携帯から視線を上げて、教科書やら何やらを机に並べて準備をする菅原をふと横目見れば、あの体育館で見た記憶よりも大人びていた。黒いカットソーなんていうベーシックな服装がよりそうさせているのかもしれない。
視線に気づいたのかこちらを見た彼は、自身の左の頬を触った。
「え、なんかついてた俺?」
「え、あ、やっぱり高校生の頃とは違うんだなあって」
「そりゃあ、もうあんなふうに声張り上げることもないし」
昨日のことをまだ気にしているような言葉に笑ってしまえば、菅原は微妙な顔をしていた。
「――そういえば、今及川はどうしてるんだ?」
「んーアルゼンチンでバレーしてるよ」
「アルゼンチン!?」
声を張り上げることもないと言った傍からあがった大きな声に、方々から視線が集まった。居心地が悪そうに口を押えてから、先程よりも小さくなった声でもう一度アルゼンチンかとこぼした。
「――すげえな、そんなところまで行ってんのか彼奴」
「スガさんは、バレーしてないの?」
始業を告げるチャイムが鳴る。
彼は長い睫毛の影を落として、薄く笑った。
「…ん、やってない」
そのあとの菅原は、目ではホワイトボードを映しながらも上の空だった。
東京体育館で行われた春高の準々決勝で、烏野は破れた。けれど、そこまで勝ち進んだのだ。烏野は昔は強かったのだと話していたその二年後に、こうして華々しい活躍を見せたのだ。それは誇るべきものであって敗退を悔いるものではないはずだと、そう思っていた。
――菅原は、違うのかもしれない。目指すべき目標や指標が無くなるまで力を出し切った時、あるいは追い立てられていた重圧から抜け出してもうやらなくてもいいのだという解放感に見舞われた時、足が止まる。それまで激しく打ち込んでいたスポーツだったはずなのに、ぽっきりと、何かが折れてしまうことがある。燃え尽き症候群なんて羅列ばかりは小綺麗だが、実際の所の喪失感は推し量れないだろう。
授業が終わると菅原はこの後も何もないようで、へらりと笑いながら帰っていった。
――彼にもあの凄まじい日々があったはずだ。簡単に踏み込んでいいものではなかったのだと、今更になって気付いた。
***
家は大学の近くに越していた。澤村は変わらず実家から大学に通っているようで、前期のうちは遊びに来たりもしていたが、授業やバイトで忙しくなるうちにそういえば会わなくなっていた。どちらともなく誘えば以前のように集まれるのだろうが、どうしても、心のどこかで比べてしまう。クロゼットの奥底に仕舞い込んだバレーシューズを、澤村はきっと笑うだろう。
『んーアルゼンチンでバレーしてるよ』
ベッドに突っ伏した頭の中で、何度も何度も蘇っては消えていく。
バレーは楽しい。だから、続けてきたのだ。けれど、今はどうだろう。
胸の裏側に溜まっていく質量を伴う靄でさえ言語化できずに飲み込めない。
はあ、と数えたくもない大きなため息が吐き出た。そんな時。
立て続けに通知音が鳴った。ロック画面には今日連絡先を交換したばかりの名字の名前があった。
『今もし、時間があったらたすけてください…』
そのメッセージの後に続いているのは駅前の居酒屋で、起き上がって財布をポケットに突っ込んだ。
時間があったらなんて文面があるところを見るに緊急性はないようだが、救けを求められている以上は無視するわけにもいかない。まだ彼女のことは及川のいとこだということくらいしか知らないが、顔と名前を知っていて少しの会話もあれば駆け付けるには十分だ。それに、名字は未成年で酒を飲むようなタイプには見えない。飲まされそうになっているか既にそういう状況か、それくらいは想像がついた。