墜落するには正しくない

目まぐるしく過ぎ去っていく景色に目を開けることもかなわない。ただ背中と膝の裏を抱えるデクの腕の温かさだけがぶらついた足にとって唯一の頼りで、いきおいよく風を切っていく音にひどい高さまで登っていくのだということはわかった。数度壁を蹴る音がした後、ようやく身体が平衡を取り戻す。
名字さん、とかけられた強張った声に恐る恐る目を開けてみると、夜に浮かぶ電灯の光を見下ろす場所に立っていた。
すとんと地面に落とされた確たるコンクリートでできた足場はどこかの高いビルの屋上だった。背後にある高いフェンスに指を絡めながら、三十センチほどしかない足場にしゃがみこむ。デクは隣でただ何も言わずに立っていた。
――高い。地面は遠い。かすかに瞬く星のほうが近いのではないかと錯覚させる。下から吹きあがってくる風はビルの隙間でうねっていて、低い音をあげていた。


「……いいよ、落ちても」


頭上で零された声の意味が、分からなかった。ただ、赦されたような声ではなかったとは思う。いいよ、と肯定を示しておきながら、そんな隙間など一切孕んでいなかった。
ふらりと立ち上がる。ミモレ丈のスカートの裾が翻る。あと、一歩。


「貴女が落ちても、僕の手は届く」


だから、落ちてもいいよ。
――線路で、あの軌条に触れたいと思った。カッターの刃を繰り出す音はその行為を咎めはしない。欄干から覗く岩だらけの川辺。いてもいなくても変わらない自分。ここで落ちたところで、生きることを投げ出せない選択肢。毒にしかなれない脆弱。捨て去っていく追想。
ここから落ちていくことのできる勇気を、この人は知らないのだろう。竦んでいる足が死にたくないと嗤っている。そうだというのに、飛び込んでしまいたい念慮は晴れない。
かくりと、一歩を踏み出す代わりに、膝からくずおれた。秋の夜風にさらされたコンクリートは冷たい。
――今すぐ、こんな矛盾を抱えたまま飛び降りろ。彼の手が届くよりも先に墜落してしまえ。


「……っ」


足元で、名前以外の人の笑い声が聞こえる。この世界は優しい人には等しく、安寧と少しの不幸とそれを凌駕する幸福が与えられる。自分だけがいつまでたっても幸福にはなりえないと願っている。そんなことはないのかもしれないと思考しながら、そうであれと、深く絶望したい理由を探している。
――何が、一体どれが、足りないというのだろう。


「辛いのに、笑わないでよ」


心臓の裏側に虚がある。その虚を撫でていく生温い言葉を飲み下すには、自分自身の不出来さが沁みていく。
いっそ、世界で一番不幸になりたい。


「……生きたくないって、正しくないんですか」


正しい絶望がないと、死にたいと泣いてはいけない。


「お腹が空いたのと、眠いのと、同じように、生きてたくないなって、思ってしまうことは、私が間違ってるんですか」


辛いというのは、なんだか遠いものだ。この感覚は辛いというものとはどことも似通っていない。


「デクさんの優しさが痛い。私は、貴方に向けられる優しさが正しいものとは思えない」
「そんなこと、」
「……デクさんの個性って、お父さんとお母さん、どちらでした?」


俯いた先で、眼球を突き刺すような風に角膜が渇いていく。
デクは言葉を詰まらせた後、どちらにも、と言った。「個性、分かったときに何もなかったんですか」と矢継ぎ早に切り込んだ問いかけに、やはり数拍の間を置いて何もなかったと言った。


「私の個性も、父と母のどちらとも似ていなかったんです。おかしいでしょ? だって、個性は親から子供に受け継がれるものなのに」


第五世代の個性は混ざり合っていることが多い。両親の個性のどちらか、あるいはどちらもを有して生まれてくる可能性が高いのだ。つまり、その両親のどちらにも似ていないということは、考えられる可能性のひとつに、"他人が一人紛れ込むこと"があげられる。


「母は昔、浮気性な人で、私の個性が両親のどちらでもないと分かったとき、父は母をひどく責めたらしいんです。蓋を開けてみれば、父方の祖母の兄妹に私と同じ個性の人がいて、曾祖父母までは記録がなくて辿れませんでしたけど、恐らく曾祖父か曾祖母と私は同じだったんでしょうね」


相変わらず俯いたまま唐突に話し始めた個性の話に、デクは困惑するように靴底で砂利を滑らせた。


「それから、両親の間には拭えない溝ができた。……私の家族は、私の個性のせいで、家族に成り損なった。デクさんは私にそうやって声をかけてくれるけど、私のどこも悪くないなんて、本当に言えるんですか? …本当に、私だけが苦しいだなんて、言えるんですか」


母の金切り声に、涙の滲む声に、どちらでもないこの個性に、裏切られた恋人に、一つ一つ食い散らかされていく。容姿も中身も個性も、帰る場所も、全部。


「血は繋がってるのに、他人ではなかったのに、それでも分かり合えない。私が何を言ったって伝わらない。だったらいっそいなくなってもなにも変わんない……っデクさんと、どこも一緒なんかじゃないじゃないですか! 貴方みたいに優しくなんてなれない、生きたいなんて思いたくない、私がこんな個性を持って生まれて、誰かに優しくもできなくて、裏切られただなんて被害者面して、誰かの目ばかり気にして、他人のせいばっかりに、して」


――違う。頭の中で、否定する声は止まない。
デクは優しい。彼に吐き出した言葉は柔らかな真綿になって名前の刺々しい声を包んでくれる。それを期待している自分がいる。彼に、八つ当たりのように言葉を吐いてしまえば、"正しく"否定してくれる。
なんてひどい、毒だ。