本当の言葉は何処にある

「……中学生まで、僕は無個性だったんだ」


ヒーローデクにまつわる都市伝説のひとつに、中学生まで彼が無個性だったという話がある。個性はみな四歳までに発現するものという定説を覆す彼の話は根拠のない話で、大抵は無能だった個性を詰ったものであるのだろうという考察がついていた。現に高校一年生だった時の彼の腕を、名前はいまだに覚えていた。
体育祭の決勝戦。優勝候補といわれた当時ヒーローランキング二位だったエンデヴァーの息子との戦闘は、高校生の枠を飛び出した熾烈なものだった。
ひどい怪我だった。爛れてひしゃげた腕で何度も殴りつけて、彼の氷を打ち消す姿はおぞましくもあった。こんな腕でよくヒーローを目指そうなどと考えたなと。これが、名前と同じたった十五才の少年がみせる激情だろうかと疑った。
ヒーローという職を目指す彼らは、痛みなど何処かに捨て置いて、名前とは全く異次元にある"自己犠牲"を築き上げた人たちなのだろうと、理解した。
そんな、彼の個性。


「無個性だった僕はそれでもヒーローになりたかった。だから、お母さんはいつも、僕にごめんって言うんだ」


個性のある身体に生んであげられなくてごめんねって。
デクは両足をぶらりと宙に放り出して腰かけた。赤いスニーカーが、夜に映えていた。


「もしも、いろんな人に出会わなくて、高校生になっても個性がないままだったら、僕はきっとヒーローはもう目指さなくて、違う何かになってたんだろうなぁ。もしかしたら、やさぐれて敵にでもなってたかもしれない」


「うん、そうかも」と小さな笑い声が隣で弾ける。デクは名前の垂れ下がった頭を撫でた。


「ずっと僕は不甲斐なくて、情けなくて、弱くて、それでも、いろんな人にいろんな形の優しさとか期待とか、もらったんだ。だから僕はもらった分、誰かに返さないとって思うけど、きっと、名字さんは、まだもらってる途中なんだよ」


デクは手を離すと両手で器の形を作った。
溜まったら、誰かにあげればいいんだ。そう言って、デクは笑った。


「それにさ、さっき辛いときは笑わないでって言ったけど、分かり合えないから、泣いたり怒ったり、笑ったりするんじゃないのかな。だから、どこも誤魔化したりする必要はなくて、それで、どうしても分かり合えない時は、分かり合えるまで目を逸らしちゃいけないんだと思う。――だから、貴女はどこも、悪くないんだよ」


父か、母に、似ていてくれれば。何度も何度もそう言われた。その個性がなければ。そう言われたところで、個性は消えてはくれない。なかったことにもならない。二人の隙間は、戻らない。
浮気なんてされた方にも何かあったんじゃない、と軽口で言われたアドバイスとは名ばかりの言葉に、終ぞ名前の中身は何も残らなくなった。
誰も見てくれない。振り返ってもくれない。容姿も、中身の一つも、受け継がれた個性でさえも。
先に目を逸らしたのは、誰だっただろう。二人の隙間に気づいたところで、言葉も笑みも埋められない。そうだよねと同調以外は許されない。そうならば、あとは物分かり良く体のいい何かに擬態するしかないだろう。
――だから、鮮烈だった。テレビの向こうで、苦悶に顔を歪めながら、ひしゃげた腕を振り回しながら、必死に何かを叫んでいた彼の姿が。優れた個性で障害回避能力に制圧能力も高い、良いヒーロー志望の生徒であればあるほど、将来は確約されるはずだ。あのテレビの向こうで見た彼の個性の使い方のどこにもそんな安定感や安心感などなく、"良いヒーロー志望の生徒"というラベルさえも取り払った背中。
馴染まなくても、均さなくても、生きていける人。


「……いてもいなくても同じだなんて、言わないで。名字さんは、誰かにいいよって、言われなくたって、ちゃんとここに、いるんだから」


柔らかい真綿でも、喉に詰まれば死んでしまうと初めて知った。
息も吸い込めない苦しさに胸をおさえつけながら、身体を二つに折り曲げたまま身動きも取れなくなった。
覚束ない呼吸の合間に紛れる嗚咽に、デクはもう何も言わなかった。ただ、彼はずっと隣にいた。
デクの優しさに漬け込むしか立てない弱さに呆れ笑いそうになる。
ああ、もうこんな毒、早く死んでしまえばいいのに。――それでも、もしもわがままを一つ聞いてくれるというのなら、いつか死ぬそのときは、彼のこの柔らかな真綿で息絶えたい。



 ***

「――ごめんね名字さん、無理矢理ここまで連れてきて」


肩にかけたそのまま持ってきていた鞄の中からティッシュを取り出して、名字は何度か鼻をかんだ後、首をふるふると振ってから赤らんだ目元を上げた。瞳の縁は揺らいでいて、今にもまた大粒の涙がこぼれてしまいそうな目をしている。ただもう泣くまいと下唇を噛み締めた顔は堪えようと必死で、言葉をうまくまだ吐き出せないでいた。


「……っ」


しゃくりあげるような、大声で泣きたい声をおさえつける苦しそうな泣き方は今の彼女を映しているような気がした。そうやって言葉を飲み込んで、音にする術を忘れて笑ってきたのかもしれない。
デクさん、とビル風の音にかき消えてしまいそうなほどのか細い声が名前を呼ぶ。


「……くるしい、です」


屋上から投げ出された足が風にあおられる。
再び俯いた顔を両手で覆うようにして、溢れ出していく涙を指先で振り払っていた。しとどに濡れていく彼女のブルーグレーのブラウスの袖は色を変えていく。
一人で涙にくれる背中は小刻みに震えていて、それでも、これ以上言葉は要らないのだろうなとは思った。
苦しい、と吐く息に混ざって落ちていく。それは、過去にいる何処かの彼女が飲み込んだ音だったのだろう。
"独り"にはさせたくなくて、だからといって抱きしめることなど到底できようもなく、小さかったエリを思い出して頭を撫でるくらいしかできなかった。