とても綺麗な毒を吐く

彼は、恐らく他人にあるはず差異を見つけようとしない。その違いを柔らかく飲み込むことができる。
だから、彼の吐く言葉は綺麗で、同時に腹の奥で溶けきれずに残り続けていく。


「……なんですか、それ」


唇から思わず漏れた声は存外にはっきりと尖ったもので、目の前を歩いていた四人のうちの数人が振り返る視線を感じて、足元を見た。
マフラーを振動させる不快音。電車の摩擦音。潜まれる他人の声。状況を窺う通行人の視線。目を逸らさない彼の瞳。
――何でもないふうな顔をして笑え。取り繕って、大丈夫だと言え。こんな場所で、吐ける言葉など一つもない。
今日とて変わらず彼の広告を見た。目の前にいる彼とあの顔とを結びつけることのできる誰かが全くいないとは限らない。ヒーローデクとしての性格は清廉潔白そのもので、間違ってもこんな誤解の生むような風聞を囁かれるようなヒーローではないことくらい、思考できた。
息を吐く。デクの言葉に、胃もたれを通り越して潰瘍ができそうだ。


「……事務所、戻りませんか」


顔を上げることもかなわずに踵を返せば、彼は曖昧な音を口から転がせながらも黙ってついてきた。
あと二週間。二週間も経てば、デクの周辺一切から名前は消える。
――それなのに、何故彼は言葉を重ねてくるのだろう。


事務所まで凡そ同伴者とは思いづらい距離を空けながら歩いていた。
明かりの灯る事務所の曇りガラスを眺めながら、どこからか夕飯の香りが鼻腔をつく。もしかしたらこの匂いの先で、団欒を、あるいは孤独を抱えながら固形物を喉に流し込んでいるのかもしれない。
――夜はいやだ。家の明かりを思い出す。湯気の立つ冷えた白米の味が胃からせり上がる。
歩みが、止まる。


「……そんなの、あるに決まってるじゃないですか」


ぽつりと落ちた独白に似た声を拾うことができなかったのか、デクは疑問の声を零した後再び口を閉ざした。
じゃり、とパンプスの底で小石を巻き込ませながら振り返る。
帰る場所はここではないのに、ここにしか帰ってくることができない。我が物顔で居座る図太さも持ち合わせていない。
事務所の前の通りは随分と閑散としていて、すれ違う人の影もいなかった。


「デクさんは全部、綺麗すぎる」


笑えない。大丈夫だと暗示ができない。
こんな、分かってくれと嘆きたい言葉じゃない。違う。


「……あるんですよ、どうしようもないくらい、違いはあるんです」


――違う。唇が、震える。
デクの腕に刻まれた傷の分だけ、誰かは救われたのだろう。不特定多数の誰かに比べて、名前のこのくだらない自己陶酔のために刻んだ手首の傷に、意味など皆無だ。
死なないために必要だった。吐き出せない靄を言葉ではない何かで吐き出したかった。――吐き出すべきものさえない伽藍洞で不出来な外殻であることなど、分かっていたのに。
一生だって理解しえない。名前自身が持て余している。彼に伝えることのできるような確とした感情なんてない。


「……あったとしても、もし、本当に、そんなものがあったとしても、どうして名字さん全部を否定しないといけないんだ」


デクの赤い靴が、一歩、地面を踏む。
違う。分かるよだなんて安い嘘を吐かせたくはない。こんな問答に意味は無い。彼を、こんなくだらない掃き溜めに付き合わせるべきではない。


「僕がヒーローをしていることを名字さんは凄いことだって言うけど、それなら毎日ちゃんと仕事を熟す名字さんだって、僕にはできないことをしてるじゃないか」


そんなの、比べようがないだろ。
デクは握りしめていた一際傷だらけの右手を胸の前で開いてみせると、落ち着かせるように何度か瞬きを繰り返してから口を開いた。


「――貴女は、僕じゃないし、僕は貴女じゃない」


泣きそうな顔をして、怒っている。――敵と相対する時も、本当はそんなような顔をしているのだろうか。


「……"名字さんがいなくなったら寂しい"よ」


そんなの、気のせい・・・・ですよ。
水族館で、そんなふうに返したのは彼がヒーローとして、いや、一人の人間としてあまりに優しすぎたからだ。その感覚は不可解への優しさからくるもので、名字名前という不明瞭な他人に対して抱いた同情に近しい勘違いだと。
違う。音が転がり落ちる。心臓の裏側を掻き毟るように掴んだ服の襟。生唾を飲み込んだ。


「……そうですね。私も、デクさんがいなくなったら寂しいと思います」


指先まで強張った力を解いていく。だらりと落とした腕が惰性でぶらつく。息を吸い込んで、それからへらりと笑った。


「変なこと言ってすみません」


右足を引く。振り返りざまに見えたデクの顔は、もしかしたら暫くは忘れないかもしれない。一年も経たないうちに忘れてしまうかもしれない。
秋の夜風は肌寒い。ブラウスの裾がはためく。
優しくはない手が、名前の手首を掴んだ。


「……なんです、――!?」


ぐいと引き寄せられて浮いた両足が、目の前にある。彼の見た目よりも筋肉質だった腕に収まったと思えば、一気に景色は上昇した。