正しいものだけがほしい

彼女の涙が涸れるほどにひとしきり零し続けた後、再び両腕に名字を抱えてビルの屋上から飛び降りた。
ヒーローとして活動していると、こういう風に一般人を救助することがあるけれど、目を固く瞑って首に縋り付いてくる人が大概だった。
彼女は、落ちていく景色を見ていた。気づいたら首から手を離してしまいそうなほど空と世界を眺めている。
――生きてはいたくないのだと、名字が言うたびに何度だって一緒に、こんなふうに墜落してもいい。こんなことで死なないでいてくれるのなら、それがいい。
事務所の前に無事着地して、よろよろと覚束ない足で立った彼女の腰を支える。夜風も随分冷え込んできて、もうすぐ日付も跨いでしまうかもしれない。
名字は慣れない移動に平衡感覚が戻らないのかまだ少しだけふらつく足で、それでも真っすぐ立とうと地面を踏んでいる。
俯いたままの表情がどんなものなのかは、分からなかった。


「……両親のこと、なんとも思っていなかったのに、こんなふうに話したこともなかったのに、私、本当は、彼と同じくらいあの人たちのことも好きだったんでしょうか」


泣き零した所為か酷くしわがれた声だった。
ぎゅうと鞄の取っ手を握りしめる名字は、最後に鼻を啜った。


「……悲しくなるくらい、好きになりたかったんじゃないかな」


沈黙が降り落ちる。車の走行音が大通りから聞こえてくる。酔っ払いの陽気な声が、この路地には不釣り合いなほど二人の間は静かだった。


「……そう、なんでしょうか。気づいても、今更、ですけど」


上擦った陽気な歌が聞こえなくなる頃に、名字は漸く頭を持ち上げた。眉間と目頭に皮膚の撓みを作りながらも、苦いだけではない綯い交ぜになった胸中を映すその表情を言い表すには既知の言葉では物足りない。


「……デクさん、今日は、すみませんでした」


もしも、彼女の中に巣食っていたものがほんの少しでも晴れたなら、有難うのほうが嬉しい。ただそんなふうに言ってしまうことも脅迫のような気がして、押し黙った。
名字はすみません、ともう一度零して、踵を返す。
事務所の鍵穴に差し込んだ鍵は丸裸のままで、ドアを開けた後にキーケースに仕舞われることもないさまを見ていた。


「……名字さん」


――生きたくないって、正しくないんですか。私が、間違ってるんですか。
振り向いた彼女の瞳は暗がりでも赤くなっているのがよく見えた。そうなるほどに泣いて、泣いて、それでも、その感情が間違っているだなんて思えない。思考したものに間違いだなんてものは存在しないはずだ。けれど、他でもない自分自身を傷つけてしまうというのなら、それは"正しくはない"のではないだろうか。ただ、"間違いではない"はずだ。それが彼女にとっての逃げ道であるというのなら、否定してしまえば彼女の薄氷の道は割れてしまう。あとは墜落するばかりになる。


「……その、名字さんには、笑っててほしい」


どうか、その不安定な道ですら、割れないでほしい。
ただそれが、全くの赤の他人であるデクにできることであるかは分からない。言葉はいつだって足りない。届かない。よく、分かっている。それでも、彼女には重ねない理由はない。


「貴女は間違ってなんかない。それでも、名字さんが笑えないのなら、……えっと、好きなものを、食べませんか!」
「――え、?」


何をするにしても、名字名前のことを何も知らなかった。とくにないです、とたっぷりの間を開けてから困惑したように返ってきた言葉に、どうやら失敗したことを知った。



***

翌日、いつものように定時から少し時間が回ったところで仕事を終えて、通勤快速に乗り込む。相変わらず混みあう車内で、変わらないデクの広告を見上げる。
思い出すほど、恥ずかしさに泣けてきそうだ。もう社会人三年目だというのに、精神的な幼さを露呈させてしまったようで、そんな自分に吐き気がする。
"正しい否定"に安心してしまった。彼の優しさに寄りかかってしまった。自己消化させるべき想いを、押し付けてしまった。間違いではないよと、貴女の所為じゃないよと、なんて甘い響きなのだろう。
嫌になる。本当に、仕様のない毒だ。
――それでも、デクの声は心地が良かった。落ちてもいいよと、固い響きではあったけれど、生きてはいたくない思考を肯定された気がした。彼の傍は確かに、息がしやすかった。
もう随分聞き慣れたアナウンスにホームへと降りる。歯医者や眼科の看板を左に上っていくエスカレーターに乗り改札へと向かう。ICカードの残高を確認しながら人混みに逆らわずに階段を下りれば、昨日と同じ場所に、似たような背格好の男が立っていた。


「……、……」
「お疲れ様……なんか、怒って、る?」


デクは、期待のヒーローだ。来年のヒーローランキングには十位以内の入賞も果たせるだろうとさえ言われている。今年は独立したばかりの業績を鰻登りに上げている最中で、少なくとも、こんなふうに他人の迎えをしているような気軽な人ではないはずだ。


「……どうして、」
「いや、あの、大丈夫、かなって……思って……」


項に手をやる彼は普段通りの歩幅で進んだ一歩を縮めて、パンプスで歩く名前の歩みにそっと揃える。
眼鏡にマスクという出で立ちで、こう何度も人目にさらされる駅前で待たれているとよくない誤解を招きそうで、そもそも分不相応なのだからそういう相手にもなりたくない。こちらの心情など露知らず、けれど言ったところで何一つ伝わりそうもないなと、思った。思ったところで、苦い味の唾液を飲み込む。


「……電車にいつも、貴方の広告があるんです」
「っ、あ、あのセキュリティ会社の?」
「そうでなくても、テレビやニュースで顔出てたりするんです。要らぬ誤解は、避けるべきではないでしょうか」


言葉は伝わらない。他人である以上、相手と自分との思考を同一にさせることはできない。だから、最初から諦めてしまう。諦めて、飲み込むことを選ぶ。
いつもであればそうして、例えば降りる駅を変えてまで遠回りにしようと考えるかもしれない。少なくとも改札口は変えるだろう。デクに何を言われようと、彼には伝えずにそうするかもしれない。ただ、それでは――寂しい、というのだろうか。デクは、そんなことはないのではないかと思った。いや、それはただの希望論で、結局は彼も他人なのだから分かり合えないことなど山ほどあるはずだ。
デクは一瞬呆けた後、奇妙な声を上げてどもった。


「あ、え、いや、チャージズマならまだしも僕はそういうのないというか、この方遭遇したこともないし大丈夫だと――」
「逆に、そういうのが一切なかった時のほうが面白がられるんだと思います」
「だからといって名字さんが一人で帰るのも、」
「この短い距離で何かあるわけないじゃないですか……」


最寄り駅から十五分圏内だ。早く歩けば十分とかからない。この短い道程で何かあろうものならば、それこそヒーローが嘆くべき問題だろう。


「……僕が、そうしたいので、ダメ?」


彼の中で、名前の希死念慮はそこまで強く見えたのだろうか。あの場で飛び降りることができない程に膝が笑っていたというのに。
車道側を歩くデクを見上げたまま、唇をぴたりと合わせる。
デクの優しさは本当に、名前に向けるべきものとして正しいのだろうか。こんなたかが一般人が、彼の綺麗なヒーロー性を汚してしまわないだろうか。


「……駅前は、やめてください」
「! じゃあ、駅出たすぐの交差点なら大丈夫?」


頷いてしまうくらいには、彼の優しさに目が眩んでいる。