お湯を注ぐ音がする

好きなものがとくにないと告げたからなのか、何故か昨夜はデクが評判の良いケーキを買ってきていた。シャインマスカットがふんだんに使われたタルトケーキは、甘すぎずさっぱりしていた。美味しいです。そう言うと、彼はひどく嬉しそうにはにかんだ。
――嘘を吐いた。本当は、美味しいものが分からない。同僚が「美味しい」というから、これは美味しいものなのだと理解する。職場から近所のイタリアンも、彼女が"美味しいパスタ"だというから、そういうものなのだと特に味のないパスタと一緒に言葉を飲み込む。いや、味はある。味覚に問題があるわけではない。塩を舐めればしょっぱく、砂糖を舐めれば甘い。それは分かるのに、美味しいというものだけが、分からないのだ。

今日も、デクはいた。駅前通りの交差点で、街灯から少し外れた場所に立っていた。仕事の方は、とそれとなく聞いてみると、近場は割と治安が良いとのことだった。要請があれば勿論行くよと言ったデクの仕事は紛れもなく、誰かを救けるヒーローだった。
二人で並んで事務所に帰る。デクが施錠を解いて、静かな受付を通り過ぎる。いつも名前が座る誰も使っていないデスクの上に、親指ほどの大きさにデフォルメされた小さなオールマイトのキーホルダーが鎮座していた。


「? 何ですか、これ」
「あ、えと、高校生の頃ガチャガチャで引き当てて、全種類持ってたんだけど、友達が同じものくれたんだ」


それは僕が引いた方。
ポットのスイッチを入れて振り返った彼は、流しに腰を当てて頬を掻いた。


「鍵、何もつけてないと、失くしちゃうかもしれないし」


デクがオールマイトの大ファンであることは知っていた。事務所にも全盛期の彼の啓発ポスターが飾ってあるくらいだ。高校一年生だった時の神野の悪夢で引退したので、あのポスターも何年前のことかと思うと、あまりの綺麗さに思わず彼のファンだという具合を知った。
なかなか、ヘビーな方だ。そしてこのキーホルダーである。
デクやショートなど、期待の新人と銘打たれた彼らのデフォルメされたガチャガチャを見た記憶はそう古くはないはずだが、それにしても、オールマイトである。
――思わず、笑った。名前にとってオールマイトは不動のナンバーワンヒーローという認識でしかなかった。尊敬や崇拝とは違う、ただの一ヒーローだった。


「これじゃ、オールマイトの事務所の鍵みたいですね」


ストラップをつまんで眼前にまで持ち上げる。
もう大丈夫。私が来た。彼の口癖だけは、よく知っている。
唐突に音をなくしたデクのほうに目を向けると、彼は驚いているような、反対に安心したような、良く分からない表情を浮かべていた。


「――どう、しました?」
「あ、いや、……オールマイトってやっぱりすごいなあって、思って」


デクの意図を測りかねて、飲み込んでから、どういう意味だったのかを問いかけようとしたところでポットのお湯が沸いた合図がした。
一度オールマイトをデスクに戻してから、彼の足元からいつもの煎茶の葉を取り出す。その間に、デクは自分のマグカップと、あのクジラの白いカップを用意していた。
急須に茶葉を入れる。青く爽やかな香りが鼻腔に広がる。
好きなものは、と昨夜ケーキを口に運んでいるとそう彼に質問された。食べ物も、スポーツも本も音楽も、これといってとくにはなかった。ただ――この時間だけは、なくなったら寂しいとは、思う。



***

次の日、交差点にデクの姿がなかった。心なしか駅から降りたあとの人の流れもいつもより少ないような気もする。
遠くの方で、赤いライトの明滅が空に向かって反射しているのが見える。音はないことから、何かしらの事件から時間は経っているようだ。
――嫌な、空気だ。もう秋も中頃だというのに、じっとりとした空気が肌を撫でる。信号が青になった瞬間、少しだけ早足で駆け抜けた。
今日は電車で携帯を見る間もなくうとうととしていた。だから、昼頃からニュースの類は一切見ていない。通勤快速の車内で、そんな話をしていただろうか。いや、誰も、何も、言ってはいなかったように思う。
大通りから、路地に入る。いつもの事務所は、明かりがついていた。ドアを開ければ鍵はかかっておらず、受付から向こうに繋がる引き戸が開きっぱなしだった。


「――デクさん?」


パーテーションの向こう側で、何かが身動ぎする。その動きはひどく緩慢で、名前は浅い呼吸を整えることも忘れてデスクの方に踏み出した。


「――ごめん、名字さん、迎えに、行けなくて」


擦り切れたヒーローコスチュームのままだった。デスクに凭れながら立ち上がる彼の頭部から右目にかけて、真白な包帯が巻かれている。右腕に残る広範囲な擦傷の痕。デスクに隠れて見えないが、恐らく右足も同様の状態のはずだ。
――すぐに駆け付けます。そう言って笑うヒーローデクは、その実、こんなにもボロボロになるのだということを初めて知った。