皮膚を剥いでも貴方は笑っている

「見た目が大袈裟なだけで、傷自体は、大したことないんだ」


デスクに凭れていた身体を座面に深く沈めて、デクは笑った。顔が引きつって痛むのか、うまく笑えてなどいなかった。
やはり右足も同じようにコスチュームが破れていて、大腿部の擦傷の痕と脛から足首にかけて包帯を厚く巻いている。
状態を見るに一度治癒系の個性によって治療がなされた後のようだが、全回復のなせる個性などそれこそ珍しい。中途半端に残った傷の血が滲んでいないだけでも、目覚ましい個性なのだろう。
――ペットボトルを掴もうとした右手が空を切る。彼は何事もなかったかのように、左手でそれを持ち上げてキャップを開けた。ゆっくりと口元を確認するようにあてがって、それからこくりとわずかに水分を飲み込んだ。


「……病院、は」
「さっきまでは病院にいて、また明日の昼頃に病院に行くよ」


意外と大丈夫だよ。
デクは膝の間にペットボトルを置いて、名前を見上げている。
デスクに置かれた彼の携帯が何度か振動している。それを取り上げようとはせずに、左目で追いかけていた。いつもなら携帯の振動は耳聡く気にしているし、誰も使っていないデスクの隣の椅子なんて、座ったことはない。
――デクのデスクは左奥。パーテーションと椅子に阻まれた通路を通っていかないと進めない。不安定な支えが多くなるから、通らなかったのではないだろうか。携帯は癖で右手側に置いてしまっているから、先程のように指が空を切ってしまうのが嫌で取りにいかないのではないか。本当は、その包帯の下に隠された傷は、笑えないくらい痛いのではないだろうか。


「……酷いじゃないですか」


コスチュームのままなのは、帰ってきたばかりだったからだという。けれど、もしも本当に傷が見た目ほどに痛みが少ないのであれば、その傷を曝け出したまま、大凡同じ時間に帰宅をする名前の前に立とうとするだろうか。


「……大丈夫じゃないから、何処も、全然、平気じゃないから、貴方はさっきから右手の物は取らないし、動かないように、してるんですよね」


彼の左目が微かに泳ぐ。それからへらりと笑って、立ち上がった。矢張り右の口角が上がり切れていないことを、彼は気づいていないのだろう。


「右側が見えないのは慣れないけど、慣れないだけで、意外となんとかなるみたい。もう少ししたら僕も家に帰るし、名字さんもゆっくり休んで、」
「――わかりました」


鞄を抱え直して、事務所の奥のドアから出て行く。階段を急ぎ足で上って鍵を開けてすぐの床に転がる段ボールを漁り、洗面所から必要なものを持ち出して、放り込むようにして鞄に詰めた。
――彼の個性は硬化ではない。たかがこの薄っぺらい皮膚など容易く切れる。薄い皮膚を裂いて、その下に張り付く白く光った脂肪と拍動する血管、繊維質な筋肉。それらが千切れて、血が流れて、いつかは固まってしまうというのに、流れ続けている間は痛みというものを訴えるのだ。
デクは真っすぐに生きているひとだ。誰かのために生きているひと。
――名前とは違う。だから、蟠りが胸の奥に落ちていく。
いつもより随分と重くなった鞄を肩にかけて、部屋を出て鍵を閉め直した。事務所のドアと同じ鍵にぶら下がるオールマイトが「もう大丈夫」と笑っていた。
階段を降りると、その先にある左手のロッカールームのドアが丁度開いた。着替え終わったデクは、名前の鞄を見つめて首を傾げている。


「家まで送ります。それぐらいは、させてください」


デクはばさりと、左手に持っていたコスチュームを落とした。



 * * *

彼の右側を歩くのは初めてだった。いつも、デクは名前の右側を歩こうとしてくれる。左目で見上げる彼の表情が包帯に隠れて見えないことが、少しだけ逸った気持ちに不安を漂わせた。
人間の情報分析の大半は視界から得られるものが多い。目で見た情報の大部分が脳に作用していて、突然奪われた半分の視界ではうまく働かないのだろう。実際に、名前に合わせることの多かった歩みは今はデクに合わせている。
この状態を知りながら、事務所で見送るだけの選択肢などあるはずがないだろう。
自転車が後ろからベルを鳴らす。デクの後ろ側に足を寄せて、それを避けた。びくりと肩を震わせた彼の仕草が、今の脳内の処理能力と比例しているのだろう。


「……どんな、敵だったんですか」


事務所から歩いて十分程が経った。おおよそ二キロ弱先にあるという住まいは、まだ遠い。
デクは大きく首を右側に捻らせて、それから左目をきょろきょろと動かしていた。大きな黒目が縁取るように動き回る。半分を覆う暗闇に彼でも恐れを抱くのかもしれない。


「うーん、筋肉増強系の個性と、身体の一部が炎になるみたいな個性の二人組で、相性は悪くなかったんだけど、場所がビル群に近かったからちょっと戦いづらくて」


デクの拳は強い風圧を繰り出す。仮令触れられなくても、うまく捕らえることのできる術は持っているようだ。それができなかったのは、彼の背中に守るべき一般人が多かったからなのだろう。
ビル群ということは、倒壊を招けばより事態は悪化するのだ。死傷者が出ることを、彼らは自分の所為だと思い込む。マスコミはそれを恰好の餌にする。そうして、彼らは背負えないはずの伽藍堂を担ぐ。


「……どうして、ヒーローになりたいって、思ったんですか」


時折引きずるようにして歩く右足が地面をじゃりと擦った。彼は左の指で唇を挟み込みながら、一瞬の思案を挟むと名前を見下ろして、それから唇を歪ませる。


「――笑っててほしいから」


なんて、綺麗なひと。
目を逸らすように下を向いた。誰かの食べかけたパンの袋が、ぐしゃぐしゃになって側溝脇に投げ捨てられていた。