穏やかであるように祈る夜

デクの住んでいるというマンションは十階層以上はありそうな、橙の柔らかな光が足元を煌々と照らしていて名前よりも遥かにセキュリティの高そうな場所だった。マンションの入り口で、ぎこちなく左手でオートロックの鍵をかざす。エントランスに繋がる自動ドアが開かれて、今更になって少し心臓が戦慄いた。
見慣れた家に帰ってきたからなのか少しばかり気が抜けてしまったようで、デクは一階についたエレベーターのドアの右側に名前が立っていなければ思い切り激突していたかのような幅寄せで一歩を踏み出す。必然的に、名前が押されて彼の肩口に額を打った。


「ご、ごめん! 名字さん…っ」
「…すみません、先に声をかければよかったです」


寧ろ彼の右腕の方が痛かっただろうに、階数ボタンを押す名前の額に心配そうに左手が触れる。指先だけだというのにやけに熱を感じて、彼の額に手を当てた。人の体温というものは、こんなにも熱くなれるのだと妙に感心して息を詰めた。


「…どこが、大丈夫なんですか…」


ぽつりとぼやいてしまった声に、デクは苦い顔をしながらも何も言い返さなかった。
柔らかな音を上げて目的のフロアに到着したことを報せる。開かれたドアの先であらかじめ聞いていた部屋の番号を探しながら、覚束ない彼の背中になけなしの手を添えて歩いた。決まりの悪そうな顔をしていたけれど、大丈夫だとはもう言わない当たり気づいてはいるようだ。
廊下の中程あたりまで歩いて、デクは一室の前で立ち止まる。手に持っていた鍵で扉を開けて、中に入る彼からどうぞとかけられた声に肩を竦ませながら入った。玄関で靴を脱ぎ揃えて、右手を壁に添えて歩く彼の背中についていく。左手に恐らく脱衣所、正面に部屋が一つあり、彼は右側の奥にあった細いすりガラスが嵌まるドアを開けた。ぱちりと電気がついて、ダウンライトの照明が仄かに温かく室内を照らしている。広いリビングにあるのはソファとテレビとテーブルくらいなもので、思ったよりもオールマイトのグッズがないことの方が驚いた。


「…熱も出てるみたいですし、部屋で休んでください。薬とか、もらってますよね?」
「あ、うん、…その、名字さん、は」
「台所、お借りします。明日とか、すぐ食べられそうなものを作って、帰ります」


お疲れ様です、と寝室の方へデクの背中を軽く押せば、思ったよりも抵抗された。


「もう遅いし、嫌じゃなければ、泊っていってよ。このまま帰る方が、心配する」
「…、では……ソファ、借りますね」


自分の身体の心配を先にしてほしい、なんて思いはしたけれど会話を増やしてしまうことも憚れて押し黙る。
「体温、測っておいてください」ともう一度背を押せば、今度はすんなりとリビングを出て行った。
ぱたんと寝室のドアが閉められる音がする。無音の慣れないリビングで、しゃがみこんだ。
――無関係の赤の他人に笑っていてほしいから、あんな傷を負っても大丈夫だと言い聞かせるのだろうか。神野や、その年に続いた敵との交戦を思い出せばヒーローがボロボロになっていくことなど知っていた。知ってはいたけれど、どうせ画面の向こう側の世界の話だったのだ。敵犯罪は縁のないもので、同じ世界線にある話ではないもの。――すべて、携帯の中の話だ。誰かの死も、傷も、夢も、目標も、志も、願いも。名前には到底、無関係な何かであった。
わけもなく、目尻が濡れる。名前はどこにも傷を負っていないというのに、その様を見ていたわけではないというのに、心臓の裏側が、空虚な痛みを訴えていた。

手鍋で簡単に作った粥を器に盛って、寝室をノックした。恐らく喉にも通したくないほどのだるさを今頃抱えているだろうけれど、身体が治るためには食べることも必要だ。生きるために、必要なことだ。
ノックをしてからやや暫く待っていると、がちゃりとドアが開かれた。


「…熱、いくつでした?」
「三十…八度…ちょっと」
「…九度、超えてたんですね。食べられそうですか」


微妙な嘘を吐いたのに気づいてしまったくらいには、彼の左目はよく物語っている。ベッドサイドのチェストの上に粥の乗った器とスプーンを置いて、コップをキッチンに忘れてきたことに気づいた。
すぐに出て行こうとした名前をベッドに腰を掛けるデクがぼんやりとした目で見上げてきたので、水を持ってくると伝えればへたりと半分の顔を崩した。
いただきますと律義に手を合わせた彼に右手を伸ばしかけて、引っ込める。身を翻して締め切った扉に、背を凭れた。


(…痛い)


その包帯の下の傷が、痛い。抗生剤と解熱剤、それから鎮痛剤が白い紙袋からチェストに放り出されていた。
彼は、痛くないのかもしれない。いや、傷は痛むのだろうけれどそうではなくて、傷を受けることを、痛いとは思わないのかもしれない。スリッパを滑らせながらキッチンへと向かう。味気のない白いマグカップに、冷蔵庫に入っていた麦茶を注いだ。
ヒーローはこうやって誰かを助けていく代わりに、誰かの傷を抱え込む代わりに、たった一人で背中を丸めて耐えていくのだろうか。
――換気扇の音が部屋を埋めている。何処からか聞こえた一つではない足音のどこにも、ヒーローを気遣う音はない。
きっと、彼がいつかその伽藍堂の重さに耐えきれなくなった時、その感情の行方は"正しい死出"になるのだろう。
彼の部屋にお茶を持って行って、食べ終えた食器を受け取る。左手にコップを渡して薬を飲むまで見届けて、おやすみなさいと声をかけて出て行った。
冷却シートがあれば楽だろうかとも思ったが、清涼剤が傷口に染みることも考えると無難に濡れたタオルがいいだろう。少しでも、穏やかな夜になればいいと、そう思っただけだ。
シンクの片づけを済ませてから、ボウルに水を張って脱衣所から小さ目のタオルを拝借する。もう寝ているだろうかとそろりと開けて部屋を見れば、幾ばくか荒い呼吸が耳に届いた。
ベッド脇に腰を落ち着けて、タオルを緩く絞る。額の上に置いたところで、薄ぼんやりと彼が目を開けた。


「…すみません、勝手に入って」
「……なんで、」


ここまで。
いつもより低く嗄れた声に、目を伏せる。


「……貴方が、ヒーローだから、」


無関係の誰かのために傷を負うヒーローが、一人で痛みに呻く夜なんておかしな話だろう。
デクは、そっかとどこか落胆にも似た目を閉じた。