脅迫が貴方の足を留めている
そのまますとんと意識を手放したデクの横で、転寝を交えながら乾いたタオルを何度も湿らせては額に乗せた。熱くなりすぎる体温を蒸散できる逃げ場くらいは作りたかった。白んでいく空を見ながら何度目かもわからない最後の短い睡眠が思いのほか深く、ベッドに頭をもたげて起きた頃には朝日はすっかり上っていた。デクはまだベッドの上で寝息を立てていて、夜半に比べて規則正しいそれにほっと胸を撫で下ろす。最後にタオルを取り換えてから、顔を洗いに洗面所へと向かった。
音を鳴らさないよう静かに部屋に戻ってから、汗とも水分ともつかない濡れた彼の額に触れると、熱は昨日よりは少し下がってきたようだった。食べられるかは定かではないが、昨日と同じように手鍋に冷凍庫にあった米を中に入れて水を張り火をつけた。開けたばかりのような鮭フレーク、卵、味噌、ほうれん草を適当に放り込んでかき混ぜる。
意外とというか、デクは料理をする人なのだろう。冷蔵庫の中は絶望的なほど空ではなかった。無難に使い勝手のいい食材が残っていて、雄英高校は全寮制であったというから、そういうところも指導されるのかもしれないなんて寝起きのぼんやりとする頭が思考する。
ふつふつと空気穴ができるのをなんとなく眺めてから、火を止める。テレビ台に乗っている文字盤に七時と表示されていて、流石にまだ目を覚ます時間でもないかと鍋に蓋をした。
状況が悪くなれば泊れるようにと鞄に色々と詰め込んできたのだが、なんだかこのまま待っているのも気が引けて、起きるより先に撤収することにした。鍵は幸い昨夜にデクがテーブルに置いていったので、閉めてからポストに投函すればいいだろう。鞄を担いで玄関を見やってから、はたと立ち止まる。
オートロックのマンションなので、そもそも玄関にポストはない。昨夜来た途中でどこにポストがあったかまでは見なかった。合鍵は必ず存在しているだろうからポストに行くまでの間くらい施錠されていてもいなくてもとまで考えていると、背後でドアが開いた。
「…おはようございます」
「――おはよ、昨日は、有難うございます…ところで、何を?」
濡れた前髪をかきあげながらドアを開けたデクは、二、三度目を瞬かせてから鞄を見た。
「お暇しようと、思って」
「もしかして、今日仕事?」
「いえ…休み、ですけど」
そう悪くはない顔色で、彼は慌てなくてもと苦く笑った。顔の右側は相変わらず動いていなかった。
一日風呂に入らなかった気持ちの悪い髪を後ろで括りあげて、ベタつく前髪を無意識にずっと梳いていた。彼がテーブルに座って黙々と食べている姿を横目見てから、手元のカフェオレに視線を落とす。
――結局、帰るタイミングを逸してしまった。湯気の立つカフェオレに息を吹きかけながら、定まらない視点をカーテンの向こう側を移す。窓ガラスに映るデクの表情は穏やかな、いや、朗らかなというべきか、とにかく締まりのない顔を浮かべていて、ゆっくりと粥を口に運んでいた。美味しいと思ってくれているのなら、良かった。名前にはそれが分からないけれど。美味しい、というものは、もしかしたらデクの隣にいるような気持ちになるのかもしれない――なんて、緩慢な思考回路が欲しがった希望論だ。
二人の奇妙な無言の空間を埋めるようなニュースのキャスターの声が響く。手持ち無沙汰につけていたテレビ番組は昨夜のニュースを伝えていて、毎日飽きもせず混乱を巻き起こす敵とそのヒーローの様相を流していた。
『昨日、十六時頃に都内で起きた銀行の襲撃事件について――』
ぷちん、と唐突にテレビが消される。リモコンを片手に肩を震わせているデクは、しまったという顔を隠しもしていなかった。
「…デクさん」
「あ、いや、えっと、その…ああ! 今日、僕お昼ごろに病院行くんだけど――」
「……貴方が凄いヒーローだってことは、私だって知ってます」
デクの名前をちらとも掠めない日はない。勿論それは電車の車内広告で毎日見るからというのもあるけれど、それだけではなくて、ニュースにも、誰彼の言葉の中にも、彼は存在している。
今更テレビの向こう側を映されたところで目の前にいる彼の傷は勝手に治っていくわけではなく、なかったことにもならず、ヒーローデクはこうして傷だらけで目の前にいるのだ。
「……」
彼は、形容しがたい顔をしていた。納得のしていない顔、と端的に表すのならばそうなのかもしれないが、表情一つで思考が読み取れるのならば誰もすれ違いなど起こりもしない。
その表情の意図を測り切れず、飲み込むには熱くない温度になったカフェオレを一口喉に流し込んだ。
ことん、とカップが立てた僅かな音に、デクは顔を上げる。
「……ヒーローとしての僕も、名字さんも、遠いものに、してほしくない…気が、して」
――彼の怪我を見るまでは、そう思っていた。遠いものだ。全く触れ合うことのない平行線の先に、デクも名前もいるような感覚。けれど、今はどうだろう。違う、とははっきりとは言えない。彼はひどく綺麗な姿をしていて、名前はといえば包帯に染み出した赤と同じだ。
ただ、全くの無関係と言い切れないほどには、彼の思考の一端を知っている。
「……デクさんは」
どうしてヒーローになりたかったのかと問うた答えに、彼は無関係な他人が笑っていてほしいからだと言った。
その中に、果たして彼自身は入っているのだろうか。――いないのだろう。
デクは、デク自身がきっと笑えなくなったとしても、気づかないのかもしれない。笑っているのかもしれない。笑えていると思っているのかもしれない。
「……きっと、ずっと、大丈夫って言って笑ってるんだろうなって、思います」
テレビに映る彼は、今のふやけた眦とは似つかない強い眼差しで相手を見据えている。デクが駆けつけた現場は嬉々として沸き立つ。平和の象徴だと皆が喜ぶ。崇める。まるで一種の偶像だ。
今まで、そこに何の違和感もなかった。彼もその他のヒーローも、名前とは何処とも交わらない人であったから。ただ、今なら思う。
「…そういうデクさんは、遠いです。だから……貴方だって、笑わなくていい時が、あるんじゃないんですか」
笑うのは、疲れる。心が疲れて、擦り減って、それでも笑うと擬態が染みつく。
――デクは唇を横に引き結んだまま、眉尻を下げて困ったように笑っていた。