冷たい呼吸で否定してほしい
昼頃病院に行くと言ったデクは、どうやらタクシーに送迎を頼むようだった。一人でも行けるのだろうけれど、階段やら段差やら、昨夜のエレベーターに乗る前のことを思い浮かべると彼の覚束ない左目に不安しか覚えない。病院までついていきましょうかと控えめな申し出に、彼はそこまでしてもらうのは、という申し訳なさとだるさの間で逡巡しながら、それではお願いしますと頭を下げた。そうこうして、今日は事務所の方には帰らないことが確定した。お風呂でも何でも使ってという彼の慣れようというのか、手放しに名前を信じ切っているあたりに少しだけ戸惑った。
厚ぼったいパーカーに包まりながらソファに埋もれている彼は、ひとまずその姿勢が楽なようで背もたれに背を預けて目を瞑っていた。時折頭が揺れるので、薄っすらと眠っているのかもしれない。彼の眠っている間にシャワーを拝借しようと、ソファの横に置いていた鞄を漁る。人の家にこうして上がり込むことは大学生の時以来で、しかも相手はヒーローだ。心の中で十は謝罪を零してから、脱衣所に入る。あまりじろじろと周りを見るのも憚れてひたすら下だけ向いて風呂場に足を踏み入れた。改修中の名前の家の風呂場より広い。そして綺麗だ。温かいシャワーを頭から浴びながら、何をしているんだろうと心の奥で沸いた声を飲み込む。
――償いに似ていると思っていたのだ。墜落する思考を咎めないでくれた彼にできることといえば、そんなくらいなものだと思った。それが果たして足るかどうかなど、全く以て思ってなどいない。笑っていてほしいと願ったヒーローが痛くて笑えないだなんて、そんなのあんまりだ。それだけの、はずだ。償いだ。生きていることへの贖罪。
――これではまるで、生きることを赦されたいようなものじゃないか。ひどい、違和感。胸が空く。虚に風が通り過ぎる。彼に有り難うと言われるたびに、虚が空いていくような、反対に埋まっていくような、とにかく胸を掻き毟りたい気持ちにさせられる。
じわじわと、彼を侵食していく毒になっている。これは正しいことだろうか。デクにとっても、名前にとっても。分からない。ただ、吸い込む息が楽になる。掻き毟りたいほどの虚であるのに。
キュ、と蛇口を閉める。落ちていく水滴を眺めていた。
* * *
熱に浮かされて見る夢は、大概良くはないものばかりだ。ただ、額からその熱をさらっていく冷たさに、これは悪夢で、今はもう大丈夫なのだと言い聞かせる声に詰まる呼吸が通っていく。熱をさらう冷たさのない――悪夢を否定してくれない――夜をまた明日も迎えなければいけないのだと思うと、どうしても笑えそうにはなかった。だから、頼ってしまった。これではヒーローでも何でもない。そう思いながらも、たった一人で熱に苛まれながらあの夢をまた見るかもしれないという不安や寂寞を払拭できない。
頭がぐらぐらとする。傷口がひきつく。そこから発せられる熱が、脳を包んでいくようだ。どこにも、逃げ道がない。
――ぴしゃりと、冷たい雫を感じた。
「…デクさん」
柔らかい声だ。少し低くて、どこか涙を湛えた声。また、彼女は泣いているのだろうか。生きたくないと、泣いているのだろうか。そうであるなら、引き留めないと。この場に留めたところで彼女のその思考の全てを理解することなど到底できようもないけれど、目の前からいなくなってしまってほしくない。
額に触れる冷たさを左手で追いかける。水気を含んだ指先に、重たい瞼を押し上げた。
「…時間になったら起こしに行きますから、少しでもちゃんとベッドで寝ていてください」
髪から垂れる雫が彼女の服を濡らした。
様子を見に来たらひどい顔してるから。そう眉尻を下げて苦い顔を浮かべる名前の手を掴んだ。
――冷たい。渦巻く熱が遠退いていく。息を吐いた。
「…名字さんがいてくれて、よかった」
優しい夢を、見たい。彼女と見たあの巨大な水槽に差し込む光に似た、穏やかな夢。
動く気力も大してわかず、そのまままた目を閉じた。ヒーローでも辛いんですね。彼女がぽつりとこぼした声に、違うんだと言葉を返すこともできなかった。
それから昼頃に彼女が呼んだタクシーに乗り込んで、昨日と同じ病院に着いた。マスクをして、いつも通り度のない眼鏡をかけて中に入れば、いろんな人と音でごった返していた。ロビーで待っていてと別れた後、診察室に向かえば同じ医者が変わらずくたびれた顔で待っていた。
彼の個性はリカバリーガールのような個性で――彼女は全回復能を持つとても珍しい個性でそう多くはいない――リカバリーガールは副作用に体力を奪われてひどい眠気に襲われるが、彼の場合は活性を促すことによってどうしても発熱してしまうというものだった。包帯を外して傷口の状態を見るに、良くまあ入院しないなんて言いましたねと苦い声をこぼした。
――もしもあの日、事務所に帰ってもデクの姿がなければ名字はどうしただろうか。慌てて事務所に帰ってきた彼女の表情を見て、安心してしまった自分がいる。同じように貴女がいなくなれば慌てもするだろうと、笑えばよかったのだろうけれどそれができなかったのは、彼女の表情が想像していたよりも泣きそうだったからだ。
そんな昨日のことを思い出していれば、話を聞いているかと医者に目を眇められる。勿論だと笑えば、はあと盛大なため息を吐かれた。
「貴方がどうしても自宅療養を選ぶからこうして来院していただきましたけど、本来であればそんな余裕なんてなかったんですからね。分かってますか? デク」
「いつも我が儘を聞いてもらって、有り難うございます」
「まったく、笑えばいいってもんじゃないですよ。私の個性だって夜になるまでは調子が良くても、寝る頃なんて最悪でしょう」
寝しなに発熱しますからね、と呆れたような顔でそういったもう馴染みの彼に、また大きく息を吐いて明日もちゃんと来てくださいよと念を押された。分かりましたと返事だけは折り目正しく返すと、物足りないとばかりに小言が何言も飛び出してきて、傷口の処置を受けながら過去の事件まで掘り返してちくちくと刺されるたびに乾いた笑いをこぼしていた。
* * *
ロビーで小一時間ほどが経って帰ってきたデクは、行きの頃よりもはっきりとした足取りをしていた。ロータリーでタクシーを捕まえて乗り込んだ車の中で、馴染みの医者がこの病院にいるのだとラジオから流れる古い洋楽を聴きながらそういった。かの医者の個性は治癒能力の活性化であり、その引き換えに夜になるとひどい高熱に魘されることになるものだという。だからきっと今日の夜も昨日と同じだと思う、と矢張り彼は笑った。
――名字さんがいてくれて、よかった。
そんなふうに微睡む意識の中でデクの口から吐き出された言葉を、未だ飲み込めずにいる。
名前の個性はそんな大層なものではない。彼の痛みをさらうこともできない。ただ、息を吸って吐いてを繰り返しているばかりだというのに。
「折角のお休みに、ありがとう」
右目の包帯はとれない。上がりきらない右の口角。反応の鈍い右腕。時折引きずる右脚。
――貴方の隣で吸い込んだ呼吸が苦しくないから、ここにいるのだというのに。貴方の毒にしかなれないというのに。
目を伏せて黙り込んだ名前に、彼は言葉を継ぐことはしなかった。ただ、まるで小さな子供をあやすような覚束ない左手が、名前の背を撫でていた。