波間で息を継いでいる

タクシーの無音を埋める陽気な音楽があまりにこの後部座席で漂う空気と噛み合っていなかった。この無音の車内をどう思ったのか、運転手が赤信号のたびに手持ち無沙汰のようにラジオを切り替えてはルームミラー越しに視線を寄越す。隣に座るデクはただ通り過ぎていくばかりの景色を、背を凭れて眺めていた。

マンションの一室への道を辿る彼の足取りは確としていて、後ろをただ連れ歩く他人のような距離を置くわけにもいかずに、ふらふらと視界に彼の跳ねる髪を映しては足元を映してと繰り返す。ガチャリと回された鍵に逃避していた思考回路を引き戻されて、そんな名前の脳内でも漏れてしまったのか、デクはまた眉尻を下げて笑った。
少しだけ眠りたいと垂れ落ちそうな瞼でデクはそう言うので、どうぞと自室のドアを開ける――というより、彼の部屋なのだから何に対しての許可だろうかと、首を傾げながら頷くと、何への謝罪かごめんとこぼして部屋へと戻った。必然的にリビングに一人残された名前は、数分か数秒か、ドアの前で立ち尽くしてから徐にソファに歩みを進める。ぽすりと柔らかな座面に腰を沈めて、ぼうと天井を仰いだ。
車が走る音。どこからか聞こえる子供の声。笑い声。風の音。鳥の囀り。換気扇。冷蔵庫の排熱ファン。音が、混ざる。一つ一つが独立しているようで、馴染むような音。瞼が落ちていく。吸い込んだ空気が喉を通って肺に落ちる。真綿に匂いはあるだろうか。あるとしたら、それはこんな具合の匂いだろうか。
――ああ、息ができる。ここは、大丈夫だ。眠ってしまってもいいよと、そんなふうに笑う音、匂い。
息を吸い込んで、すとんと意識が落ちた。



 * * *

カーテンの隙間から漏れる光が瞼の裏側を強く刺して、一面の橙にしてしまうものだからやけにはっきりと目が覚めた。何か夢を見ていたとは思う。そしてそれは確かに昨日と同じく夢見のよいものではなかったとは思うが、胸が空くような嫌な鼓動はなかった。
布団を剥いでベッドから足を出すとひどく久しぶりに床を蹴ったような心持ちがして、天井に向かって両手を伸ばして息を吐く。彼の個性のおかげか、随分と調子がいい。これも束の間のものではあるが、今なら事務所の依頼を何件か受けられそうだ。まあ、彼に今度こそは病室に詰め込まれでもしそうなのでそんな無謀はしない。
リビングにそっと顔を出すと、いると思っていた彼女の姿が見当たらなくて思わず名前を呼びそうになってから、ひっそりと聞こえる寝息に気づいた。
こちらに背を向けるソファの正面に回ると、名字は上半身を寝転ばせて穏やかに眠っていた。それもそうだ。よくよく考えれば、彼女はずっと看病をしてくれていて、碌に睡眠も摂っていないのだろう。ーーそれに、あの事務所の二階でさえ、大して寝てもいないのではと思う。出会った頃よりも色濃い目の下の隈を知りながら、最適な答えを出しそびれていた。
足音を立てないように洗面所に向かう。洗濯機に服を突っ込んで、水滴の残る風呂場に入ってからそういえば彼女が朝に使ったなと思い出した。一瞬でもよぎった不埒な思考をかき消すようにシャワーを頭から被ると、傷口に水がひどく染みてそれどころではない痛みに苦悶の声を上げた。

終始まとわりついていた砂埃と血の匂いがさっぱり落ちて、ぐずぐずと盛り上がる傷口を眺めてから軟膏を塗ってガーゼで覆う。
リビングに顔を出せば、まだ彼女は寝ているようだった。


「…名字さん」


規則正しい呼吸が続く。
彼女の前に座り込んで、窓の外を見やる。もう随分日も暮れ始めていて、このまま寝るには夜は長いだろう。もう一度名前を呼ぼうと顔を向けると、身動ぎしたことで名字の胸の前に収まっていた左腕がだらりとソファから飛び出した。
――手首に、うっすらと一本の線が残っていた。
生きてたくないって、正しくないんですか。私が、間違ってるんですか。
あの夜の、彼女の張り裂けるような詰めた声が聞こえた。
あんなふうに日々積もり積もっていくあらゆるものから自分自身でさえ守ることもできずに、あまつさえそれをこんな形でしか吐き出せなくて、そうしてここまで生きてきたのだろう。
名字の細い手首に触れる。親指で一文字の傷を撫でながら、情けなく震え出しそうになる目尻に、固く目を閉じた。
――分かり合えないかもしれない。彼女の傷はこんなにも薄くなっているというのに、未だにまざまざと切りつけたばかりの鮮やかさでそこにいる。こうすることでしか逃げ道を作れなかった彼女の思考の一端でさえ、出久には一生だって理解し得ないものなのかもしれない。そうまで追い詰められて、自分自身に向けられる涙に暮れる暴力的な衝動を、一片も抱いたことがなかった。
それでも。どれだけの言葉や涙を交わしたところで、彼女の思考の全てを押し図ることなど到底できるはずもないけれど、それでも。
貴女のそのひとかけらだっていいから、その思考の一抹でいいから、同じように持っていたいと思う。
こんなふうに、ただひたすらに穏やかに眠ることのできる居場所になりたい。


「……ん…デ、ク、さん……?」
「――おはよ、名字さん」
「…すみません、寝ちゃって、」


彼女は起きあがろうとして、そうできない左腕の違和感に気付くと一瞬だけ呼吸を詰める。出久の手の中に収まる左手首を、ただ静かに見つめていた。お互いの息を吸って吐くだけの音がどれほどか続くと、彼女は諦めたように目を細めた。


「…名字さん、僕、一つだけ嘘をついてて」
「…嘘、ですか?」
「うん。…実はさ、この傷、結構痛いんだ。ヒーローとかじゃなくて、僕だって、怪我したら痛い。…名字さんも、本当は、痛かったよね」


傷は、痛むものだ。血が出ていなくても、骨が折れていなくても、内臓や皮膚や、組織の何かが痛んでいなかったとしても。"傷"は、痛む。
するりと傷痕を撫でる。皮膚の僅かな盛り上がりが、錯覚でも皮膚の皺でもないのだと物語る。
名字は、何か言葉を吐こうとしてやめた。少しだけ口籠もった後、たった一回ですよと言った。


「…良かった。貴女がたくさん、痛い思いをしなくて」


デクさん。
生活音にかき消されてしまいそうなほど小さな声が、名前を呼ぶ。


「…名字さん、ご飯、食べよっか」


懸命に息を続けるこのひとが、どうかこの夕と夜の波間で溺れませんように。
握りしめた左手の温かさに、また目尻が震えた。