其が血となり肉となり明日になる

手首を切って、唯一後悔したことがあるといえば、誰彼から吐き出される似たような言葉の羅列にうんざりしたことだろうか。
――本当は、痛かったよね。
そのどれとも当てはまらない言葉だった。違う世界の人だと思っていたヒーロー――いや、彼の傷と、名前のこんな傷が同列であろうはずもないと言うのに、彼は僕だって痛いんだよと笑った。泣いていた、ようにも見えたのは都合のいい解釈だったのかもしれない。僕だって痛む傷が痛くないわけないだろうと、そういった。たった一回の躊躇い傷を、慈しんでくれたのは彼が初めてだった。

そうして、何故かキッチンでフライパンを握っている。隣で包丁を握る出久の手捌きは、片目しか見えていないとしても、思ったよりもぎこちないものだった。右目が見えないのだから座っていてと言ったところで、何か手伝いたいのだと進言した彼にまさか火の前に立たせるわけにもいかなかった。
包丁を使わなくても済む料理をしていてと言っていた彼の言葉はそっくりそのままだったようで、カットされた人参の大きさが不揃いなことはまだしも、断面までがたつく次第で、彼にもできないことがあるのだと知った。今日はなんだか、初めてなことばかりだ。
調子がいいのだと笑ったデクにつられるように、食べるための支度をしている。
ご飯を炊いて、熱したフライパンに油をひき、彼が切った野菜を炒めて煮込む。折角なら作り置きができるものをと煮物が選択された結果だ。卵焼きは以前に拘って作っていたようで、長方形のフライパンを取り出したデクは溶いた卵を分割しながら流し込んでは成形していく。魚が食べたい、と言って取り出されたのは鯖の缶詰で、レシピサイトを漁りながら作った最後の主食をテーブルに並べた。
湯気のたつ白米。即席インスタントの味噌汁。不恰好な煮物。綺麗に巻かれた卵焼き。大皿に盛られる鯖の炒め煮。
お腹が空いた、とどうにも科白と合わない表情に、何を考えているのかと問いかけてみたくなった。この傷を見て、ご飯を食べようと笑って、二人でキッチンに並んで作ってみせて。
――デクと名前は、皮膚を隔てた赤の他人同士であると言うのに。


「…デクさん」


はい、と差し出された箸を、受け取る。
椅子に腰掛けた彼は、座る気配のない名前を見上げた。


「怪我を治そうとしてエネルギー使うから、お腹空くんだよね」


パチンと両手を祈るように合わせる。


「生きてる証拠、だね」


ね、名字さん。
膝が抜けるように、椅子に腰を落とした。
手を合わせて、彼は待っている。湯気の立つ料理を挟んで、笑っている。
指先を揃える。
自分のための、誰かのための、生きるための、食事。


「「いただきます」」


デクは口元を確かめながら、白米を運んでいく。煮物も、鯖も、卵焼きも、噛み込んで飲み込んで、そうして蓄えていく。


「名字さん、料理上手なんだね! めっちゃ美味しい」


本当、美味しいよ。
彼の笑い顔が、食事を促している。
白米を、口に放り込んだ。湯気の立つ、温かなご飯。
――デクさん、この傷を見て、貴方はどうして、そんなふうに言ってしまえるんですか。
小鉢から挟み上げた煮物を頬に詰め込む。醤油と味醂と砂糖に煮込まれた人参は、やはりひどい形をしていた。
――貴女は間違ってなんかない。
分かり合えるまで目を逸らしてはいけないだなんて、貴方の正論はどんな拳よりも暴力的だ。そうだと知っていながら、期待してしまう。言葉を重ねれば、分かり合えるのかもしれないだなんていう妄執。いや、もしも、分かり合えなかったとしても、理解が及ばないものだったとしても。そうなってしまうまで、言葉を選んで吐くことを待っていてくれるのだろう。
出汁と、砂糖で味付けされた卵焼きを噛む。
食べて、噛んで、飲み込んで、また食べる。


「…っ」


痛かったよね。
デクの声が、心臓にひりひりとしみていく。熱いものを食べた後のような喉のひりつきに似ていて、それが、痛い。とてもとても、痛い。
ぱたぱたと涙がこぼれてあふれて止まらない。瞳の縁から伝い落ちる涙で口の中は塩辛い。


「……っ、――い、です」


喉を通る食べ物。消化して、吸収されて、明日のための身体になっていくもの。
たった一人で、あるいは目の前に誰かがいたとしても相容れない空気の中で、温かい湯気の立つ冷たい食事を掻き込む矛盾があった。ただ生きていくことが難しいばかりの日々で、生きるための食事をする矛盾を咀嚼していた。絶望にもなりきれない明日への漠然とした落胆を抱えながら、擬態しながら、金を食事に変換させて。
テーブルに滴る丸い水滴に映るデクが果たしてどんな顔をしていたかは分からなかった。
――貴方の毒にしかなりえない。そうであると、分かっているのに。


「っ、おい、しいです…っ」


噛み込んで飲み込んだ分だけ、腹に溜まっていく。
彼の隣で静かに続く生きるためのあらゆる行為が、ただただ、無性に掻きむしりたい胸の奥の虚を埋めていく。
デクはそうだねと言うと、名前の目尻に浮かぶ涙を親指で撫でるように掬った。滲んでいた視界に映った彼の顔は、やはり笑っているばかりで、それがまた喉の奥を詰まらせていく。
――ああ、柔らかい匂いがする。味がする。