眠るあなたの喪失を知る

沢山の言葉が二人の間に振り落ちていくわけではないというのに、ゆるゆると腹が満ちていく感覚がした。すっかり平らげられた皿をまた二人で片付けながら、夜を待った。
ソファに並んで腰をかけていると、適当につけていたテレビにショートとインゲニウムに密着取材をしていた番組が流れる。テレビに映る二人の姿を皮切りに、彼らとはこんなことがあったのだとデクの小さな笑い声が弾けた。
デクの高校生の頃の話をぽつりぽつりと話しては、名字さんはとまるでお互いのカードを一枚ずつ捲っていくように少しずつ交互に、もう十年前にもなろうという日々の話をこぼしあった。
デクのように鮮明で圧倒的な日々があったわけではない名前の話を、何が面白いのか眦を細めて頷く彼に、それでも話す口を止めなかったのはどうしてだろう。あの頃の名前が感じていた小さな喜怒哀楽を、デクと共有したかったのかもしれない――。
テレビの横のデジタル時計が二十二時を告げる頃には、デクの表情が僅かに曇っていた。そろそろ彼の熱が上がる頃なのだろう。テレビの電源を落とすと、デクは曇らせた顔を申し訳なさそうに歪ませて、こちらを向くように座り直した。


「名字さん、わがままを、言ってもいい…?」


お好きなだけ、と言ってから瞬きを一つする。
座面に置いていた右手をさらった彼の指先の熱に、生きている証拠だねと笑うことを選んだデクを思い出した。

あれから一時間と経たないうちに顔を真っ赤にさせた彼は、今は荒れる呼吸を立てながらベッドに横たわっている。部屋に戻る前に飲んだ鎮痛剤はまだ効いていないのか、いって、と時折漏れる珍しく口の悪い言葉が、新鮮だった。


『隣に、いてほしいんだ』


我儘を一つだけといったデクのそんなお願いに、首を横に振る気持ちなど一ミリだってなかった。ただ、思う。


「……痛いの、代われる個性だったらな…」


隣にいたところでなんの役にも立てない。昨日と同じように額に気持ちばかりのタオルを乗せて、こうして見ていることしかできないことはどうしたって歯痒い。
夢と現を彷徨っていたデクはふっと一瞬目を覚まして、へらりと笑った。


「…名字さんが、いてくれるだけで、ずっと楽なんだ」
「……辛い時は、笑わないでって言ったの、デクさんじゃないですか」


実は結構痛いんだと、そう吐露してくれた傷に呻きながら笑うデクと、彼が彼女にそう告げたあの日の名前と、一体どれ程に違いがあるというのだ。そんな違いなんて、なくていい。
うん、と捻り出した声の後にデクは息を吐き、ふやけた瞳にうっすらと膜を張らせながら鼻を啜って、それでも矢張り唇はゆるい弧を描かせていた。


「そう…なんだけど、でも、ちょっと、違うんだ…」


片足分の意識を向こう側に落としているような声音に、小首を傾げる。継ぐであろう言葉の合間で、額からもう温くなったタオルを取り上げて、水につける。
言葉の続きを待ちながらタオルを絞っていても一向に紡がれない音に顔をそちらに向ければ、彼の左瞼はぴったりと閉じられていた。

小一時間ほど様子を見ていたがどうやらしっかりと眠りについているようで、最後にタオルを取り替えると物音を立たせないように立ち上がって部屋を後にした。
おそらく明日もこんな具合なのだろう。明日は日曜だけれど馴染みの医者は診療してくれるようで、今日と変わらず病院にいくことになる。まだ彼の右目を覆う包帯が取れるようになる兆しはなさそうなので、ひとまず明日もタクシーを呼んで、と頭の中で算段を立てていく。
カバンの中身を漁りながら、時計を見やる。日付が変わるにしても後三十分はある。事務所に寄って、中身を入れ替えて、それからコンビニに寄って冷蔵庫を補充しよう。下駄箱の上のフックにかかる鍵を拝借して、すっかり冷えた夜を歩いた。



 * * *

気がついたら、雑居ビルの屋上に立っていた。両手両足をみやればヒーローコスチュームを身に纏っていて、視界を遮る暗さは何処にもない。
ぐるりと視界を一周させて、それからもう一度前を向くとフェンスで隔てられた向こう側に先ほどまでいなかった名字が忽然とそこに姿を現した。彼女の柔らかなスカートが風に靡いている。左手首から滴る赤い血が、夜の屋上でやけに鮮明に見えた。街灯やビルの明かりに輝く夜景を背景に、彼女は後ろを振り返る。黒く解けた髪が風に揺られるせいで、表情が読めない。


「…生きていたくない」


ひどい風の音に、それでも名字の声ははっきりと耳に届いた。
そうして、ゆっくりと背中から落ちていく。彼女は、夜空に涙の粒を浮かべていた。
身体が、動かなかった。見下ろした右足からは止めどない血が流れていて、右腕はひしゃげていて、右目の視界が一気に暗くなる。落ちていく彼女を、ただ、見ていることしか出来なかった。


「……っ!?」


吸い込んだ息が肺に入り切らない。心臓がひどく脈打っていて、勢い開けた左目につられて右目が動いたせいで鋭い痛みを訴えている。
身体が鉛のように重い。脚も腕も、夢の続きのように動かない。額に乗る温かなタオルが首元に落ちて、左目の縁いっぱいに動かして隣をみやると、彼女の姿は何処にもなかった。
――嫌な汗が、首筋を伝う。足が動かない。古びたブリキのような腕を必死に動かして布団を剥げば、今度は右足がずくずくと疼く。
痛い。どこにも姿がない。足が動かない。頭が、回らない。あれは、ただの悪夢だ。昨日だって同じように彼女ではない他の誰かを救けられない悪夢を見た。ただ、目が覚めるたびに彼女は隣にいて、起きるたびにいつも冷たいタオルがそこにはあって、ああ夢なのだと、手が届かなかった事実はなかったのだと否定してくれていた。――タオルが温い。
軋む両足を動かして、ベッドから立ち上がる。フラつく視界も身体も引きずるようにしてドアを開けた。リビングにつながるドアの先には誰もいない。ソファにも、キッチンにも、どこにもいない。廊下に出ればひどく空気が寒くなっていくような気がして、そうだというのに身体の奥底は滾るように熱い。早く追いかけなければと、姿の見えない彼女を探しに行かなければと、思っているのに身体は壁に凭れたまま動けずにいた。
怪我人に付き合わせてしまっているだけで、彼女だって一人で動きたい時もあるだろう。もしかしたら事務所に帰っているだけかもしれない。少し外を歩きたかっただけかもしれない。――本当に、あのビルの屋上に、立っているかもしれない。
もしそうだとしたら。追いかけて、腕を掴んで、そうして、なんと言おう。生きていたくないと泣いていた彼女の苦しさを、理解できるだろうか。話し合って言葉を重ねて、それでも彼女が生きることを辞めたいのだとそう嘆いてしまうとしたら。落ちていきたいと切望する彼女を留める自己満足が、本当に正しいだろうか。
――違う。


ガチャ。


鍵が回る音がした。そっと静かに開かれたドアから入り込む風が、出久の熱い頬を撫でる。
後ろ手にドアを閉めてから、彼女は下を向いていた顔をあげて短い悲鳴をあげた。


「っひ…デ、デクさん…!? なんで、起きて、というか、何処に――」


言い終わらないうちに、彼女の手から買い物袋が落ちる。両手で抱き込んだ名字の身体は冷たくて、息をしていて、あんな夥しい程の血の臭いはどこにもない。


「…デク、さん……?」
「…気づいたら、いなくなっちゃいそうで、もう、あの時みたいに、戻ってこないんじゃ、ないかって、思った……」
「そんなわけないじゃないですか、今は…ちゃんと、ここに、」
「今だけじゃなくて、ちゃんと、ここに、いてほしい」


――どういう意味ですか。
困惑する声で訪ねてきた彼女の問いかけの答えを、出久も持ち合わせてはいなかった。
ただ、生きていてほしい。笑って、ここにいてほしい。どれだけ生き難いと泣いていても、何度だって涙を拭って隣で彼女の吐き出す言葉を待つから、だから、貴女には生きていてほしい。
仮令分かり合えなくても、生きたくなくても、傷をつけたくても、言葉が出てこなくても、涙をこぼすことさえできなくなっても。貴女がいなくなる夢の続きを、見たくない。ただ、それだけだ。