貴女だけの痛みがあるだろう
公園の中央にある時計は、もう暗すぎて文字盤の数字さえ見えない。木の葉のかすめる音や時折茂みが揺れる音が不気味であるはずなのに、立ち上がる気力はどこからも沸いてはこなかった。
それもそうだ。沸いたところで帰る場所さえない。背もたれに深く背を預けながら、どうしたものかなと息を吐いた。
――せめて、人間としての最低限の尊厳は保って死にたいなあ。
就職して三年目。生活に相応の給料のせいで貯金も多くない。敵犯罪保険が適用されたとして、引っ越しにかかる料金、賃貸契約に必要な頭金、家具の損壊程度によれば買い直して――。
(だめだ。面倒くさい)
そもそも、もうここまでして生きていなくてもいいのかもしれない。これはある意味良い機会なのではないだろうか。
もう十分、生きたじゃないか。精一杯生きることに努力したと思う。ずっと、自分の中にある拭えない違和感と向き合いながら、生きてきたじゃないか。寧ろ、ここまでよく生きてきたと、褒められたって――。
「……やっぱり、昨日の人ですよね」
薄暗い街灯しかない公園で、少し先から歩いてきた男の服装は、確か先程アパートの前にいたヒーローだったと思う。
彼は少し距離を保ちながら、恐らく、笑った。
――昨日の人、と言われて、思い出せることは一つだけだ。掴んだ手の節くれだった硬さは、常に身を危険に晒しているからなのだろう。そういう人からすれば、生きていたくない気持ちなど到底噛み砕けるはずのない思考回路だっただろうなとついつられて笑った。
「……ヒーロー、だったんですか」
「はい。……すみません、僕がもう少し早く来てれば、家の被害も少なく済んだのに」
「……そういうの、辛くないですか?」
たらればの話は、所詮希望論だ。成しえなかった現実があるのなら、したところで無意味で空しい。空論に責任を押し付けられたら逃げ場がない。
彼が口を噤んだのが分かった。
「死のうとか、思ってないですよ」
「……そうかな。貴女は――なんというか、羨ましそうな目をしてた」
――羨ましそう。確かに、そうなのかもしれない。自ら線路に飛び込むことも、屋上から飛び降りることも、剃刀も、水も、薬も、ロープも。そうできる人の振り切った一歩を勇気といってしまうことは世間的にはよくないのだろうが、その一歩が、名前にとっては等しく勇気であったと思う。そしてその勇気が、ない。かといって生きていくための勇気もない。
「……ヒーローも、死にたくなる時ってあるんですか?」
小首を傾げるような軽々しさで聞いてしまったことを後悔した。彼に何を言ったところで、所詮返ってくる答えなど目に見えていて、名前はただ精神の弱い社会人だ。
彼はコスチュームのグローブを握ったり開いたりを繰り返しながら、答えた。
「……僕はないけど、貴女にはあるんですよね?」
「……さあ」
「僕と比べる必要は、ないんじゃないでしょうか」
ぱちりと、今まで消えていたベンチ脇のライトが光る。たった一瞬、接触不良でまた消えてしまったけれど、彼の顔だけははっきりと見えた。
毎朝、笑っている広告。すぐ駆け付けますと、そう言いながらそうではなかったとき、あるいはそうできなかったとき、彼はどんなに辛くなるんだろうと思う。
生きるためのそういう努力は、報われなかったとき、苦しくはないのだろうか。
名前だったら苦しい。辛くて悲しくなる。そういう心が折れてしまう瞬間は、心臓ではないその裏側に質量を伴わずに確かに存在している臓器とも呼べない何かが痛む。痛くて痛くて仕方がないから、生きるための努力はことごとく虚しい。そこからまた一人で笑えるほど強くはないし、そうしなければならないのであれば死にたくなる。生きているほど苦しいのなら、そこから逃げ出すことの勇気を何故非難されなければならないのだろう。生きるのは、その人ではなく、まぎれもなく名前だというのに。この心臓が、脳が、手足が抱える痛みを、他人が背負ってくれるわけでもないというのに。
「貴女が死にたくなるくらい何かが辛いなら、それは比べても測れない……と思います」
あなたよりもっと苦しい人や辛い人がいるだろう。生きたいのに生きられなかった人や、食べることや眠ることのどれをとってもあなたよりもできない人がいるだろう。
死にたいと嘆いた時の常套句はそんなところだろうか。あなたよりも、他にも、そう言われるたびに、名前が感じた苦痛はどれもとても陳腐で矮小で、取るに足らないものであると捨て置かれていく。
――誰よりも、自分自身がそう思ってた。死にたいに足る理由を探していた。その理由がないと、そんなふうに考えてはいけないのではないかと、どこかで思っていた。
深く凭れていたはずの背中はいつの間にか丸まっていて、就職祝いに自分で買った鞄を抱えていた。晩夏の夜風は肌寒くて、何度も何度も飲み込んだ嗚咽に熱くなっていく目尻を冷ましてくれていた。
「……帰る場所、見つかりましたか?」
ふるふると首を振った。
彼は目線を合わせるようにしゃがみこんで、頬を人差し指で掻く。
「本当は、良くないんですけど……僕、事務所作ったばかりで、仮眠用というか……、来客用の部屋が空いてるんです」
「……は」
ここで逢ったのも、何かの縁だと思います。
弾かれるように顔を上げた先で、彼は笑っていた。