無自覚が降り積もっている

生きていて、ほしい。
玄関の前で壁に身を預けていたデクに突然抱きすくめられながら、熱に浮かされた思考回路でようやっとというふうに口をついて出てきた言葉はそれだった。耳元でたった一言をこぼして意識を失ったデクを息を切らしながらベッドに運び、彼の意図不明な言葉に家に着くまでは眠かった目もはっきりと冴えてしまった。
――貴女がいなくなったら寂しいよ、と水族館で彼は言った。誰かにいいよって言われなくたって、ちゃんとここにいるんだから。貴女に笑っていてほしい。名字さんがいてくれてよかった。――生きていて、ほしい。
言葉が積もっていく。デクの言葉が、取り零しそうな程綺麗な言葉が、鉛のように胸にのしかかる。
ヒーローデクに、そんなふうに言ってもらえるような価値のある人間じゃない。彼のこんなに魘される夜を穏やかにすることもできない。何もできない。ただ、彼の優しい真綿のような全てに依存しているだけだ。それだけだ。
――ここに、いてはいけないような人間だ。彼の優しい毒に殺される。彼の喉を詰める毒になる。彼が無自覚の優しさをこんなふうに他人のためにすり減らしながらさせてしまうことは、彼にとってどんな正しさがあるというのだ。
住む場所も、最初から死ぬこともできないのなら術などいくらだってあった。いい大人がただ生きていくことなど簡単で、今からだってそんなものは遅くはない。事務所を出て、漫画喫茶でもホテルでもなんでも行って、デクとは無関係な日々を送るべきだ。
そうしていれば、よかった。そうしていれば――こんなに、苦しくはならなかった。この、胸に痞える苦さの正体が分からない。今まで感じていた虚のような隙間ではない。形の分からない異物が、ずっと心臓のあたりに居座っている。
生きていてほしい。
笑っていてほしいと言っていた頃よりも、その言葉はもっとずっと、名前の影を踏んでいるようなものだ。
苦しい。眠るデクの隣で、貧相な呼吸を繰り返しては言いようのない痞えの正体を探していた。

空が白んでいくと、デクの熱は治まっていった。魘されるような寝息ではなくなり、最後にタオルを絞って取り替えると部屋を出た。洗面所で涙のようなよく分からないものでぐちゃぐちゃになった顔を洗い流して、リビングに戻る。ソファの横にあるカバンを握りしめて――やめた。
柔らかいソファに腰を沈めて、朝になっていく窓の外を眺める。
――分かっている。言い訳ばかりが頭の中を往復している。答えが出ないまま、増えていく朝の音を聞いていた。



 * * *

朝起きて、おはようと声をかけた。ソファに身を沈めていた彼女は寝てはいなかったようで、ドアに立つ緑谷の方を振り向くとたっぷりの間を置いて「おはようございます」といった。その表情はわざと硬さを残しているような違和感があって、どうしたのかと問いかけようとして、昨日の夜のことを思い出した。
――思わず、抱き締めてしまった。
帰ってきたことに安堵した。死ぬための徘徊ではなく、提げてきた買い物袋に垣間見た彼女の揺るがない優しさに、呼ばれた名前が涙を隠す声ではなかったことに、安心してしまった。
熱に浮かされた自身の突飛な行動を卑下しながらも、抱きしめた朧げな記憶をなんだか惜しいと思う思考に、頭を振って左腕で頬を覆う。顔が半分隠れていてよかった。
名字は不思議そうな視線をこちらにやるも、特に言葉を継ぐことはしなかった。キッチンに立った彼女の隣に、昨日と同じように並ぶ。
昨日の作り置きの煮物を電子レンジにかけて、冷蔵庫の白米が盛られた器と取り出した煮物の入った小鉢を取り替える。彼女は朝は食べないというので、コーンスープの粉末をカップに流しこんだ。
テーブルに向かい合わせに座って、両手を合わせる。
朝は、静かだった。
体調は、傷は、今日の予定は――。ぽつりぽつりと隙間を埋める言葉があんまりに彼女のいる景色と違和感なく押し嵌っていて、汁気を含んだ椎茸が頬の内側でじわりと染みた。
不意に、スープを口に含んだ彼女が数度瞬きを繰り返しながらカップと緑谷に視線を往復させていた。


「…デクさん、このスープ何か、入ってるんですか?」
「? ううん、ただのコーンスープだけど…?」


緑谷の言葉にそうですか、といった彼女の瞳の縁がゆらゆらと揺れているように見えた。
――美味しいです。ぽろぽろと涙をこぼしながらいうような科白ではなかった。ただ、以前にケーキを買って食べた日とは明らかに異なっていて、ああこんなふうに食べる人なのだと知った。
テレビの音と誰彼の生活音の混ざるリビングは変わらずに静かではあったけれど、ゆったりとした漣のような、柔らかい何かが胸の奥で揺らめいていた。

それから病院にもついてきてくれた名字は、家に帰ってくるなり、今日は事務所に戻りますと告げた。明日は仕事なので、と目を伏せながら話す彼女に、また夜通し看病してくれなどと口が裂けたって言えるわけがなかった。昨日の夜の我儘も相当なものであったと理解しているので、そっか、と濁す以外言葉の選びようがなかった。
――内心は、やはり怖いのだ。情けないと唇を一文字に結んで、最後のお願いだとばかりに夜ご飯は一緒に食べようと笑った。
彼女は、初めて会った頃のように曖昧に唇を引いていた。