満つ、溢れるを恐るる

頭からシャワーを浴びながら、どうしてこうなったのだろうと跳ねる水の音に引けを取らないほどの溜息を吐いた。
――遡るのは朝のこと。寝ぼけた眼を擦りながらやってきたデクと朝食のコーンスープを飲みながら、家で飲んだことのある味と違うことに気がついた。いや、これは味というのだろうか。明確な表現ができるほどの語彙もないが、違うと感じたことだけは確かだった。
メーカーも同じでパッケージに変化もなく、何かを加えたわけでもないのだと不思議そうな顔をするデクに、ああそうかとほの温かいコーンを奥歯で噛み締めて理解した。
夕食もそうだった。昨日と同じだと思った。喉を通っていく食物が胃に落ちていく感覚に"満たされる"というものを初めて覚えたような心地だった。
美味しいねと、矢張り笑った彼につられて噛み込んでいく。涙はもう零れはしなかったけれど、コップに水が溜まっていくような感覚とは裏腹に、白む空を眺めながら思考していたことを思い出す。
彼への贖罪だと、他人に笑っていてほしいと願うヒーローが笑えないなんてあんまりだと、そう思っていた。だからこそ、彼の見えない右目の代わりになろうと、魘される熱の僅かな逃げ道になれるようにと、隣にいた。そんな馬鹿げた贖いを続けて、次第に毒に成り果てて。
皿を洗いながら、隣でそれを仕舞っていくデクを見下ろす。


『…終わったら、お暇します』
『――うん。送るよ』
『それじゃあ意味ないです。大丈夫ですから…』


足元の戸棚を閉めて、名前を見上げるデクは唇を尖らせていた。


『夜遅いし、そこそこあるし、一人で帰らせるわけにはいかないよ』
『昨日だって、遅かったですから』
『尚更。心配、するし』


心配。
異様にその言葉だけが浮いている。デクの限度のある心の一端を名前にも配っているのだという。
脳髄の裏側がざわりとした。
――なんのためにデクの家に上がることになったかといえば、そもそも彼の右目が見えないからこそだ。不安定な視界と足場が少しでも楽になればと思ったからだというのに、送られて挙句デクが一人で帰るなど、本末転倒もいいところだ。
この言いようのない違和感の正体は恐らくはここにある。彼の言い分は正しくない。心配だよと言った言葉の宛先を間違っている。
そうだというのに、互いに食い下がらなかった意見の応酬に負けた。それならば今日も泊まればいいという言葉で折られることになったのは名前の方だった。彼は存外に頑固で――いや、知らない一面というわけでもなかったと今になって気づいた。

そうして、冒頭に戻る。
よもやデクの私的な家から会社に通うことになるとは思いもよらなかった。毎日乗っている電車の広告に張り出されている人物が、こうして紛れもなく名前の目の前に存在しているこの現実味のなさを理解してくれる他人が果たしているだろうか。
消えてしまわなければと、願っている。脳内に犇めいている神経回路は余す所なくそれを訴えている。そうでなければならない。彼の隣にいることで知った両手に溢れる感覚を――忘れて、なかったことにして、また生きていくのだから。
――怖いと、自覚してしまった。
敵犯罪の被害者とヒーローという関係性だ。あのアパートが修繕されればもう会うこともなくなる。それだけの脆い地盤に立っている。
期日の迫る明確な終わりがあるのだ。
そうだというのだから、心配するよなんていう言葉が宙に浮いている。

個性による治癒のおかげか、三度目の夜は今までより幾分か熱が下がっていた。昨日よりも相対的に調子の良さそうな――あくまで相対的である――デクは今日こそ気にせずに寝てくれといって、寝る間際にブランケットとクッションを押し付けて部屋にこもった。
押し切られた手前無理に部屋に入るのも気が引けて――いや、そういう口実を自分自身に作ったのかもしれない。大人しくリビングのソファに縮こまった。
事務所の物よりも大きくて柔らかかったリビングのソファは、横になると途端に眠気を誘った。ソファのせいだけではないのだとは、もう分かっている。
何か夢を見た気もしたけれど、ふっと夢と意識の狭間を漂うような不鮮明な脳が眩しい光に覚醒を促されて、すっかり内容も忘れてしまった。ただ、起き抜けの物悲しさはなかった。もう一度眠れば見れるだろうかとも思ったけれど、デジタル時計の表示に身を起こす以外の選択肢はなかった。

最寄り駅が住んでいた場所とも事務所とも異なっているため、いつもより余裕を持って家を出る支度を終わらせる。後は靴を履くのみとなったところで、デクの部屋をノックした。衣ずれの音がぼんやりと聞こえるので、着替えているのだろう。少し待ってから、もう一度声をかけるとドアが開かれた。


「…すみません、起こしてしまって」
「ううん、いつもこの時間くらいだから…ちょっと待ってて」


寝癖のある髪と落ちそうな瞼に、そういえば彼も同い年だったなとそこで初めて年相応に思えて、目を細める。ドレスシャツと書かれた彼のあのよくわからないシャツシリーズはどこで買っているのだろうなと、リビングに向かう背中を追いかけながら考えているとチャリと金属が擦れる音がした。
テレビ台の引き出しから何かを取り出したデクは、はいと名前にそれを突き出した。
両手を皿にして受け止めると、それはスペアと書かれたタグがついたままの鍵だった。


「今日も病院行った後、報告書まとめたりして事務所にもこっちにもいないかもしれないから、一応渡しとくね」
「……私、他人です」


彼にとっての何にもなれないような、赤の他人だ。
デクはまるで考えもしていなかったようで、瞬きを数回して暫しの沈黙を挟んだ後、「でも」とこぼしてふやけた顔を浮かべた。


「それならここも、名字さんが帰ってきていい場所に入れてくれませんか」


仕事に遅刻してしまうからと背中を押されるようにして、家を出た。
行ってらっしゃいと、笑いながらかけられた声に、行ってきますだなんて返せるはずもなかった。