泪を喰えば、擬態できるか

職場のデスクに、鍵を二つ並べた。どちらもあのアパートの鍵穴には挿し得ようのない鍵だ。


「名字さんって、オールマイト好きだったんですか?」


斜向かいのデスクに座っていた同僚が長財布を片手に立ち上がっている。いつだったかに気に入っているブランドの物を買ってくれたのだと微笑ましそうに話していたのを頭の隅で思い出していた。相手は確か、営業部の婚約者だったと思う。ランチに行こうと笑っていつも誘ってくれる彼女は、デスクに並んでいる鍵を見下ろしながらはっと何かを思いついた顔をした。


「あ、もしかして彼氏さん?」
「――全然。たまたまもらって、寂しかったのでつけてみたんです」


へらりと笑った顔に間違いはない。なんだ、と残念そうな顔を浮かべる彼女は、名前が立ち上がるのを待っている。鞄から財布を取り出して、内ポケットに鍵を入れ直した。
――帰ってきてもいい場所に入れてくれませんか。
朝からずっと、彼の声が耳から離れない。
和食を食べたい気分だという彼女と選んだ店は種々の惣菜を自分で選ぶことができて、なんとなく厚焼き卵が目に入った。デクの卵焼きは四角く綺麗に巻けていたなんて考えていたからか、皿が盆の上に乗っていた。
鯖の塩焼きも厚焼き卵も、一昨日とさして代わり映えのない食材であるはずなのに。
同僚は婚約者と近々海外旅行に行くそうで、そんな彼女の旅行計画は自慢をするでも誇張をするでもなく純粋に楽しげであったというのに、それさえも喉に痞えて誤魔化すように卵焼きを飲み下した。腹にどすりと固形物が溜まっていく。こういう顔を、幸せそうだと人は云うのかもしれない。確かに、そんな話をする彼女のことを綺麗だと思った。倖せというものは綺麗なのだろうか。――そうだろうか。
会社に戻っても鞄の中のディンプルキーが何度も脳裏を掠めていくので、気がつくとキーボードを叩く指が止まっていた。空が暮れ泥んでいく様を見ながら一向に埋まらない表計算ソフトの空欄を丁度良かったと思う程には、この鍵の本心が不明瞭だった。

夜の八時を回った頃、資料作成に必要なアウトラインを終わらせた。フロアには名前しか残されておらず、空調の無味な音が響いている。分厚いダブルリングファイルをガラス棚に戻し、データを保存してパソコンのシャットダウンをクリックしたあたりで携帯が鳴った。断続的なバイブレーションは着信を報せていて、下に向けていた画面をひっくり返すと大家からだった。大抵仕事で日中には出られないことなど分かった上でこの時間に連絡をくれるので、十中八九アパートの修繕に目処がついたのだろうことは予想がついた。
コール音を三度。四度目で、応答ボタンをタップした。


「――すみません、お待たせしました」


時間は大丈夫かと、そう尋ねてきた大家の声は忙しなかった。


『アパートの修繕、漸く今週で終わるのよ! 古かったしついでに内装も細々変えたから、金曜には確認と荷運びはできるようになるけど、名字さんはどう? 電気ガスは都合のつく日を先に教えてくれればすぐ開栓できるよう業者に頼んでおくわ』


パソコンの脇にある小さな卓上カレンダーを見る。今週の金曜は、会社の関係で元々休みになっていた。
言葉が、先に舌先で転がった。


「荷運びも業者の立ち会いも、金曜でお願いします」


――明確な終わりがある。
それじゃあ金曜に、と最終確認を告げる大家の声が、誰もいないオフィスに沈むように落ちていった。


 * * *

通勤快速が止まる駅で降りた。つまりは、事務所に帰るための最寄り駅だ。駅に降りてから、そういえばとデクの家に置いていったいくつかの荷物を思い出した。恐らくは洗面グッズの類だったと思う。朝に使ってそのままにして、鞄に仕舞い忘れて出てきてしまった。なかったとしてもコンビニで新しく買い直せば済むものばかりで、駅前の交差点で信号待ちをしながら脳内にリストを作っていく。
信号が青になったことを告げる音声案内。道ゆく誰かの足音につられて足を踏み出す。くたびれたサラリーマンの後ろを歩きながら、見慣れた道を進んでいく。少し前までは、降りることもなかった駅。通り過ぎるはずもなかった店。杖をついて歩く老夫が知らない角を曲がって消える。老父とは反対の小道に入ってすぐにあるビルの一階には、灯りがついていた。
規則正しく鳴らせていたヒールの音が止む。道路をバイクが走り去る。電車の音が聞こえる。最初にここを歩いた頃よりもずっと寒くなった夜風が、肌を撫でていった。
――心臓がずっとじくじくとした鈍い痛みを訴えている。切り終えたあとの手首のような、鮮烈でいて重だるい痛み。
終わりの音は、きっと無機質なコール音なのだろう。
すりガラスに人影が映り込む。ガチャリとドアが押し開かれて、ジーンズにパーカーを被った私服のウラビティが現れた。


「――それじゃあデク君、お大事にね。無理しちゃあかんよ」
「ごめん麗日さん、ありがとう」


ウラビティと壁に隠れて見えない彼の声。右足を引いて、なんともないふりをするために携帯を握りしめて、身を翻す。
――消えてしまいたいと願っている。この世から少しの影も残さずに、吸い込んだひと呼吸さえなかったことにしたい。
灯りのついた事務所に、何を期待したというのだろう。馬鹿みたいだ。ヒーローで、他人なのにと、たかだかアパートの修繕期間で間借りしていた関係だというのにと、自分自身で理由づけをしておきながら、内ポケットに仕舞ったままの鍵にも、事務所の灯りにも、彼の声にも。心配しているのだといっていたデクの心の隙間に名前がいることを期待していたのだ。――馬鹿みたいだ。
雨が降ってほしい。濡れそぼるほどに降り頻る雨が欲しい。
俯きながら訳もわからず涙を零して歩く女など、こんな夜のいったい何処で擬態できるというのだ。


「あれ、どうしたの、おねーさん」


大通りに戻って駅から反対を真っ直ぐに歩いて信号のない十字路に差し掛かると、左にある工事中のガードフェンスに寄りかかりながら煙草を蒸している青年が声をかけてきた。


「……」
「お、怖い顔だけど好み」


安い煙草のソフトケースを尻のポケットに突っ込んで、彼はフィルターを指で潰すと燃えていた灰ごとコンクリートに押し付ける。煙の重たい残滓が鼻腔を衝いて、思わず顔を顰めた。それに彼は笑うと、短髪の項に手をやりながら曲げていた上体を起こした。


「彼氏と喧嘩? 浮気? やり返す?」


――死にたいに足る理由を、探している。周りの誰もが、それならば、と頷くような理由。
デクよりも背の高い彼を見上げながら、はらはらと顎を伝う雫を振り払う。指先につく水が鬱陶しい。構ってほしいだけでしょ、と、手首を切った翌日に言われた言葉が脳漿で沸き立つ。彼もそうだ。泣きながら歩いてるんだからと笑っている。そういうことじゃないのと、否定も肯定も必要としない言葉が殴りかかってくる。
――ぱしりと、柔らかな熱が左手を掴んだ。