どうか、遠いままでいて

「何してるんだ、こんなとこで」


左手を強く引かれてよろめくと、ぽすりとかたい胸元に頭が収まる。見上げなくとも声だけで分かっていたというのに、咄嗟に上を向いた。
彼の右目にかかる包帯は外れていて、額から瞼、頬に大きな絆創膏を貼り付けていた。瞳も開けられるようになったようで、デクの濃い碧の虹彩がこちらに向けられる。すっと細まった双眸に合わせて、眉が潜められた。
男は顔を歪めて「話してただけだろ」と苛立たしげに火の消えている煙草を手のひらで握り潰したかと思うと、少しの間ののち暗がりの中を模索するような目つきでデクを見つめ始めた。


「お前――」
「――っわ、名字、さ、?」
「行きましょう、ちょっと話してただけですから」
「あ、おい――!」


デクの背を押して、歩いていた道を引き返す。
街灯の下であれば、すぐさまデクだと看破されていただろう。夜の暗さとデクの顔の半分が隠れていたことも重なって青年の判断が遅れて良かった。


「…名字さん、何ともない?」
「本当に、喋ってただけですから」


しばらく彼の背中を押すように歩き続けて、事務所のある小道に曲がった。そっとデクの背中から顔を出して通りを見ても、先程まで話をしていた彼女の姿は何処にもなかった。
――今更何に安堵しているのか、考えるまでもない。
名前の手が離れると、デクは進むのをやめた。半身を翻した彼は、躊躇わない手で名前の目尻を親指で拭う。


「…じゃあどうして、泣いてたの」


そんなことないですよと、笑って仕舞えばよかった。今まで、どんなふうに擬態していただろうか。思い出せない。彼の目の前で誤魔化す方法を探しているというのに、そんなことをしなくてもいいのだといつだかに解かれた否定のせいで、術を忘れてしまった。こんなにも弱くなった生きるための模倣を、貴方のせいですよと言えたらどんなに楽だろう。貴方のその真綿のような毒のせいで苦しいのだと、言ってしまえたらこの痞えは消えてくれるだろうか。
半歩分後ろに足を引いて彼の手から逃れると、目の縁から絶えず溢れ続けている小さな粒を片手で擦って反対の手でデクの肩を再び押した。彼はうわ、と短い声をあげながらも抵抗せずに背を押され続けた。電気が点きっぱなしの事務所に詰め込むようにして、そうして最後に名前自身も枠を跨いでドアを後ろ手に閉めた。


「名字さん、」
「金曜から…アパートに、戻れるんです。今までご迷惑をおかけしてすみません。本当に有り難うございました」


彼の赤い靴先が、こちらを向いた。どちらにせよ頭を下げている名前にはデクと自分の爪先しか映っていない。肩にかけていた鞄が手首にまで勢い落ちてきて、ファンデがつくことも厭わずにカーディガンの袖で目元を拭ってから身を起こす。内ポケットを漁ってデクの家の鍵を掴むと、拳を突き出した。目を見ることが怖くて、彼の胸のあたりを映していた。


「二階の荷物もこれから整理して、そしたらすぐ出て行きますから」
「…金曜まで、どうするつもり?」
「後三日です。会社とか、どうにでもなります。これ以上迷惑はかけられないです。だから、」


――ふわりと、お茶の香りがした。
初めに出された小綺麗なティーカップ。独立祝いにもらったというそれが、何故か頭をよぎる。そういう細かいところの気遣いは彼女は得意そうだなと、また揺さぶられた。馬鹿みたいだ。
彼らが雄英高校の生徒であった頃から知っている。同い年で、身をぼろぼろにしてでもなりたいものがあって、誰かのために笑える人で、なんてよく出来た人たちなのだろうと思っていた。それに比べて自分のことで精一杯でやること成すこと中途半端な上に何かの役に立つわけでもなく、ただ日々を浪費していくだけの不形成な名前。
――思考回路が繋がっていないのが自分でもわかる。今は、アパートに戻ることができるようになった事実だけをデクに伝えれば済む話だ。それに付随する名前の胸臆などどうでもいいことで、居住までの三日間の算段を話し合えば終わりだ。
何も言わなくなったデクを前に、顔を上げることさえ叶わなかった。何せ、性懲りも無くまた目の縁から涙が零れている。止まってくれないのだ。これではまるで、期待に打ち砕かれた人間のそれだ。
大丈夫だと笑うことは、よくしていたはずなのに。どうしても、できない。どうせ構ってほしかっただけなのだろうと、青年のように笑ってくれればよかった。そうしたら、もうそれでいい。構われたいがためだけの女に、擬態できるというのに。
恐る恐るというふうに、デクの手が拳を握っていた名前の手を包むように掴んだ。


「…どうして、泣いてるの」


もう片方の手が、俯く名前に触れようと伸ばされる。ぱたりと彼の指先に涙が落ちて、慌てて目頭を手首で押さえ込む。彼の右手が二人の間で行き場をなくしていた。
名字さん、とかけられた声にすら零れ落ちる。
――デクの優しさが、痛い。カッターの刃なんてものよりも、圧倒的な鋭さで突き刺さる。
違いなどないと彼はいつの日かに言葉を選んでくれていたけれど、彼となら、この取れない痞えを溶かしてくれるのではないかと期待してしまったけれど、そうではないのだ。
デクのその優しさに見合うものが、名前には何もない。何一つ、持ち得ていない。
好きなものは何かと彼が聞いてくるたびに、答えがなかった。ただ、あの奇妙な茶会は苦痛ではなくて、それどころか温かくて、柔らかくて、彼の隣は呼吸が楽だった。――生きていてもいいのかもしれないと、思えた。
痞えている大きすぎる異物で、窒息しそうだ。


「っ……ウラビティ…いました、よね。彼女も、よく笑う人で、やっぱりこういう人がヒーローなんだろうなって、思います」
「…名字さん」
「彼女も、貴方も、ヒーローです」


遠いものに、してほしくない。
静かな朝の音に紛れ込む彼の言葉を、知っている。テレビで流れるヒーローの一言で表される傷を、知っている。


「…これ以上、貴方と、関わりたく、ない、んです」


彼の手の平に無理やり鍵を押し付けて、逃げるように待合室を抜けた。階段を駆け上がって、オールマイトがぶら下がる鍵を回す。
――身勝手で、最低で、何にもなれずに、挙句に彼の優しさを蔑ろにすることしかできない。
両手でキーホルダーごと包み込んで祈るように額に当てながら、息を殺した。
完璧だなと、思えたのだ。相互に補完しあえる関係性だと、ウラビティとデクを見て思ってしまった。
ゆっくりと階段を登ってくる足音がする。紛れもない彼の足音は、部屋の前で立ち止まると名字さんと揺らぐ声をあげた。


「……ごめん、ただ、貴女のことが、心配で…」


もう、言葉を重ねないでほしい。突き返してほしい。身勝手で我儘な女であったと、死にたいといいながら死ぬこともできないような弱い女であったと、そう笑ってほしい。


「……もしも…貴女が、もし、ここにいて少しでも休まるなら、最後まで、ここに、いてほしい…とは、思う」


おやすみなさい。
そう最後に残して、彼の消えていく音を辿っていた。