左様ならば
秋ももうすぐ終わりを迎える空気がする。
随分と昇るのが遅くなった朝日に合わせて、スーツケースを抱えて階段を降りた。ひんやりとした事務所はまだ薄暗く、小さなシンクの前で足を止めた。流しの下の棚を開けて、一番手前に並ぶカップを見つける。来客用のカップよりも手前にあるそれは、デクの使うマグカップの隣に確かに存在していた。取手を指に引っ掛けて持ち上げる。深い青の鯨が、ブラインドから溢れる朝日に煌めいていた。
事務員のデスクにある付箋を一枚もらって、カバンからボールペンを取り出す。デクのデスクに貼り付けて、その上に、ことりとカップを置いてきた。
待合室を抜けて、曇りガラスのドアを押し開く。
もう大丈夫だと笑うオールマイトが揺れる。がちゃんと静かに鍵をしめて、ポストの中に落としこむ。
ほんの少しの間だけ、事務所の前で、長く息を吐いていた。
* * *
三日間、残業という体で会社に残った。退社ギリギリまで居座って、それから駅前の漫画喫茶で夜を過ごしていた。フルフラットのシートは居心地が悪くて、それでも寒くはないだけマシだった。慣れれば寝れるようにもなるものだろうかとも思ったが、慣れの問題ではなく単純に眠ることができないのだと気付いた。吸い込んだ空気が苦しくて、浅い呼吸を続けているのは何となく分かっていた。
金曜日の朝、修繕の終わったアパートの前にスーツケースを引きずりながらやってくると、大家が大丈夫だったかと名前の空いていた手を掴んで肩を叩いた。ひどい顔だけど、と心配そうな顔で覗き込まれたので、へらりと笑った。
残業続きだったんですよとそれらしく振る舞えば、大変ねえと彼女は当たり障りのない相槌を打った。
間取りに大きな変化はなく、ただ見紛うばかりに綺麗になった内装に漫画喫茶と同じような居心地の悪さを感じていた。ガス会社の男と立ち会いながら開栓作業をして、トランクルームから配送された段ボール箱を開ける。家具の一切がないので、今日中に買い物にも行かなければいけない。敵被害の保障手当のおかげで安い白物家電を買っても余りがある。財布だけを持って駅前の家具家電量販店を歩き回ってひとまずカーテンに寝具一式と家電とテーブルだけ揃えた。書き慣れた住所を記入して、コンビニでサンドイッチを買って家に帰る。持って帰ってこれたカーテンを取り付けて、窓に背をもたれながらサンドイッチを頬張った。
以前は味だけは普通に感じていたのだけれど、ここしばらくはその味でさえ朧げだった。レタスの挟まったサンドイッチは口の中がもさもさとして、緑茶のペットボトルを口につける。成分表示のあたりに書いてある生産地に目を留めて、また飲み込んだ。茶葉の方が美味しかったなと、思い出して瞬きを一つした。
何もない部屋に横たわる。
段ボールから放り出された行き場のない雑貨が無惨に散乱していて、上半身を起こして手を伸ばした。
カッターがあった。カチカチと刃が滑り出る音を、無意味に繰り返す。
家の中を揃える。整える。それらは等しく生きていくために必要だった。もういっそ遺品さえ残さなくて済むと思っていたのに、こうしてまた物を集めている。
――カッターの刃は、手首を滑らない。
ずっと、あの皮膚の硬くなった親指でこの盛り上がった傷口を撫でられている感覚がする。痛かったよねと、薄らと涙さえ湛えた目がこちらを見ている気がする。同時に、感じたこともないほどの息苦しさが胸に痞えている。
誰かの笑い声が聞こえる。車の走る音、通り抜ける風、暖かな日差し、冷たい床。真新しい壁紙の匂い。ひっそりと続いている呼吸。鼓動。――彼の部屋の、あの大丈夫だと思えた空気はもう、思い出せない。自分自身で関わり合いを断っておきながら、何を求めているのだろう。
今朝見た携帯のニュースでは、彼の復帰を喜んでいた記事が載っていた。同時にもう既に解決せしめた事件を称えていて、矢張り彼は誰かを守るヒーローだった。
彼の連絡先は事務所を出た日には削除していて、もうこれっきり、会うこともないのだろうと思う。あの駅にはもう降りない。敵犯罪に巻き込まれないとも言い切れないが、一生でそう何度も出会すようなものでもない。
元から、そういう関係性のものだ。ヒーローですらない名前にとって、彼は遠くて然るべきもので、全く同一の土台にすらないものだ。それが正しかったのだ。彼がすり減らしていた優しさというものの宛先や、すり減らすことしかできない名前が隣に居続けることは正しくはなかったのだ。何せ、"デク"はヒーローなのだ。この社会にとっては必要不可欠な絶対的存在だ。
カチリ、と無意味な音が止む。
『生きていて、ほしい』
右手から、カッターがこぼれ落ちた。