鰓も肺も疾うに失くした

毎朝六時に鳴るアラーム。日の出が遅くなったので差し込む朝日は仄暗い。すっかり朝晩は冷え込むようになり、肩口から忍び寄る寒さに目を覚ました。今日は、朝から雲ひとつない快晴だった。


「名字さん、最近疲れてない?」
「え?」


アパートに戻ってから、一週間が経った。起きる時間も、朝食のスープも、熟す業務も、乗る電車も、家に帰ってすることも。何ひとつ変わらない日々を過ごしていた。
深くは眠れていないのか、時折こぼしそうになる欠伸を噛み殺しながら薄いコートを脱いでパソコンを立ち上げていると、斜向かいの同僚が名前の顔をじっと見つめながらそういった。


「今日は一段と眠そうですね?」
「…そう、ですね。今週はベッドを変えたからかも」
「あ、わかりますそれ! 枕とか変えちゃうと私も眠れなくって」


彼女の背景の一つにあるカレンダーをぼんやりと視界に映す。今週末で月も変わる。――そうしたら、本当に何かが終わってしまいそうな気がした。いや、それの何が一体問題だというのだ。早く、早く。いっそなかったことになれるほどに、忘れてしまいたい。


「じゃあ今日は元気が出るご飯にしましょう! 何がいいか考えておいてくださいね」
「難しいですね…考えてみます」


同僚の声に眉尻を下げながら笑う。
何を食べても、もう分からなくなっていた。

就業を告げる社内放送が流れる。一人、また一人とデスクが空いていく。お先に、また明日、と同僚が手を振って帰っていく背中を見送った。華の金曜日ということもあってか、フロアが閑散とするのは早かった。
ファイルを保存して、シャットダウンする。真っ暗になった画面に映る自分にため息をついたのは殆ど無意識に近かった。
――仕事がある方がいい。すべきこともなく家にいると要らないことばかりを考えてしまう。気が付いたらニュース読み漁っている。彼の名前を見つけては怪我をしていないだろうかと思考する回路を笑うこともできない。敵との戦闘中に撮られた写真には相変わらずまざまざと傷跡が残っている。傷など増えたところで、彼は笑っているのだろうけれど。そんな彼の隣にいるのは、他でもないヒーローだ。
コートを羽織って荷物を整理する。月曜には月が変わるので、卓上カレンダーを一枚めくってゴミ箱にそのまま滑り落とした。

バスロータリーで連なる人の後ろに並ぶ。もう何度目とも分からない欠伸のおかげで意識は緩慢としていて、動いた人混みに合わせてバスのステップを踏む。手摺りに掴まりながら、走行に合わせて身体を揺らせていた。頭は冴えないまま改札を通り抜け、今度はスーツの男に背中を押されながらホームに到着した電車に乗り込んだ。車内は温い風が吹いていて、あんまりに息苦しいので上を見上げた。彼の顔をそこに見つけてしまって、目を閉じる。それ以外の逃げ道がなかった。
早く、忘れてしまいたい。なかったことにしたい。そうすれば、あの日々に感じていたものさえなくなれば、変わらずに――息を、続けることはできるだろうか。
瞼を押し上げる。ぼんやりとしている景色は、眠い所為だけではなかった。
聞き慣れた駅名のアナウンスとともに開かれたドアから雪崩のようにホームに降り立った。改札を抜けて、階段を降りる。陸橋を越える手前の交差点の角にあるコンビニの前に、ビニール袋を提げた男が立っていた。出立ちの雰囲気が"彼"によく似ていて、その脇を通りながら思わず足元だけを見て歩く。交差点を曲がるのをやめた。少し先にある信号のない歩道までひたすら顔を上げずに歩き続けた。
顔を上げたら、気が付かないうちに冷たい水滴をこぼしそうになる。
――忘れて仕舞えばなんて言いながら、その答えなど疾うに知っている。あの日から、息ができない。あの水槽の中を漂う海月のように、揺蕩うだけで精一杯だった。
彼の残影を、追いかけていることに気付いている。


「――名字さん!」


ぱしりと腕を掴まれた。右から大きなエンジン音が駆け抜ける。
目の前を路地から現れた車が通り過ぎていった。
強く引かれた力に流されて、背後にいたその人の胸に倒れ込んだ。頭上で吐かれたため息に混じる声は、聞き覚えなどという曖昧な表現をしないまでもなく、"彼"の声だった。


「…今度は、車に轢かれるつもり?」
「……な、んで」


無意識に振り仰いでしまってから目を逸らす。
コンビニの前で立っていた男だった。出立ちが似ているとは思っていたが、まさかそっくりそのまま彼だとは誰が思うだろう。
デクさん、とこぼれ落ちそうになった呼び名をかろうじて飲み込んだ。脇を通り過ぎていく見知らぬ他人の目から逃れるように、素早く寄りかかっていた身を起こして距離を取ろうと後ずさる――けれど、デクの手がそれを許してはくれなかった。


「…話がしたい。ちゃんと、」


顔を上げることなどできるはずもなく、ただ弱くはない力で掴まれ続けている手首に頷く以外の選択肢は用意されていなかった。――いや、ここで、彼の言葉を聞いてしまえば逃げ出した意味がなくなる。何のために、あんな無責任な別れを選んだのだ。


「は、離して、ください…っ何もないです、から…!」


空いた手でデクの掴んでいる手を振り解こうとしている様がよほど大事に見られたのか、道ゆく誰彼の盛大な視線が集まり始めていることに気がついた。まだ駅も近い道路で、道行く人も多い。デクもその訝しげな目の多さに慌てて手を離した隙に、川沿いの歩道に向かって駆け出した。
家とは正反対の方面ではあったけれど、今はただ、彼の目の前から逃げてしまいたい一心だったのだ。


「え、ちょっ、待っ…!?」


背後で彼の戸惑う声を拾ったけれど、立ち止まる勇気もなくただただ舗装されたコンクリートの道を走ることしかできなかった。