貴女と明日の話がしたい
※ 番外編(26話の緑谷視点)
恐らくこれは、ヒーローとして正しくはないのだと知っている。その事実がやけに重く胸の内に伸し掛かっていて、まるで徐々に深みを増していく泥濘みを歩いているようだった。
毎日毎日、ヒーローとしての仕事に奔走した。デクとして在るべき正しさを背負っていくことで、いつか彼女のことも守るべき大勢の誰かに紛れるだろうかと思考している一端に気付きながら、見ないふりをしていた。
仕事の終わりにコスチュームを脱いで、人々の群れに紛れ込みながら歩く。事務所から自宅までの道すがら、なんとなくマンションの屋上を経由してしまう日々が続いていた。フェンスを越えて、たった三十センチもない足場でしゃがみ込む。吹き上がってくる風が鋭い音を立てて服をはためかせていて、気を抜くと身体がよろめきそうになる。
途方もなく遠い地上を見下ろしながら、隣に彼女が立っている気がして思わず右側を振り返った。ただただぽっかりと青白い欠けた月ばかりが浮いていて、当たり前のように其処には誰もいない。
――生きていたくないって間違ってるんですか。
もう随分と昔のことのように感じられるその台詞は、今でも耳の奥であの日のまま褪せずに鼓膜を震わせている。それ程までに衝撃的だった。緑谷にとってその感覚は何に喩えようもない程にあまりに縁遠かったのだ。そうだとしても、彼女にとってはごく自然に存在している思考回路なのだという。生きていたくないという気持ちが、彼女の死へと向かう足を早めていってしまうのだろうか。それとも、か細い糸で引き留めるための重しになっているのだろうか。
生きたくないと願いながら涙に暮れては立ち竦む彼女の身体に、どうかそのまま竦んでいてくれと願っている。そうすれば、緑谷の手は届く。ここから自由落下していく速度よりも速く、彼女の手を掴むことができる。――目の前にいなければ、それすら叶わない。何処か遠い名前も知らない場所で、不確かな未来と飲み下せない自己意識の恐ろしさに耐え切れずに、もしも、あの夢のように涙を空に零してしまいながら落ちていくことを選んでしまったとしたら。
「……生きててほしい、だけ、だ」
そうであるなら、どうか目の前で落ちてほしい。仮令彼女の願いが生きることを手放すための墜落だとしても、何度でも引き留めよう。何故救けるのかと責め立てられたとしても、関わるなと拒まれたとしても。何度も何度も、彼女の隣で共に落ちていけばいい。落ちて落ちて、生きることに苦しんでいたとしても、ただただ隣で生きていてほしい。緑谷の自己満足でしかなく、彼女の苦痛を取り去ることも出来ず、一生だって理解し合うことも出来ないかも知れないけれど。
他でもない名字に、生きていてほしいだけなのだ。笑うことが難しくてもいいから、泣き暮れることばかりであってでもいいから、どれほどに些細な話でもいい。不確かな明日の話を、したい。
全てを救うヒーローには、なれないのかもしれない。分け隔てなく平等に、誰にでも同等の心を配ることが出来なくなるのかもしれない。それはヒーローとしては正しくはないけれど、自分自身を誤魔化して無かったことにするには、名字の声が耳に残ってしまっている。
たった三十センチの足場から、右足を踏み出した。
飛び降りながら振り仰いだ空にあんまりに多くの星が瞬いていて、喉の奥から声が漏れる。彼女の願うものが何であったとしても、仮令、こんな夜を見上げながら落ちていくことだったとしても。その願いは、きっと間違いではない。ただ、悲しすぎる。そんな願いを抱えたまま一人で呼吸と鼓動を遂行していく日々など、苦しすぎる。――そんなふうには、させたくない。
近づいてくる地面に黒鞭を伸ばして着地の衝撃を緩衝させる。ヒリヒリとした足の裏の痛みのまま走り出した。
駅の方角へと足を進めた。この時間であれば、電車を使った方がすれ違えるかもしれない。変装にもなっていないと呆れたように眉尻を下げる彼女に言われた黒縁の眼鏡も、息苦しいマスクも、本当はそれらをしなければならない事実に緑谷自身もほんの少しの遠さを感じていた。それでも、デクとしての顔も緑谷出久としての顔もどちらに違いなどないのだ。彼女が案じてくれた傷を負ったのも、キッチンに立って食事の支度をしたのも、湯気のたつ夕食を挟んだのも、帰ってきてほしいと鍵を手渡したのも、どちらもデクであって緑谷出久だ。
――ヒーローとしてではなく、ただただ、彼女に生きていてほしいと願うのも。
改札を抜けて、ホームに滑り込む電車に乗り込む。
線路に飛び込もうとしている名字を見つけた偶然から始まった。あの日は、いつもであれば仕事を理由に断ることが多かったA組の同窓会の帰り道で、自宅の前に事務所に寄ろうと降りたホームにいた彼女は線路を眺めていたのだ。黄色い線の上で微動だにせず、軌条を呆然とした瞳で見下ろしていた。恐らくこのまま、この人は気がついたら消えてしまうのではないかと思った。悍ましい死よりは、消失を連想させた。だから、手を掴んでしまったのだ。
名字の最寄りの駅のアナウスが思考を分断する。開かれたドアから押し出されるように降りて、辺りを見渡すもそれらしい人影は見つからない。これではまるで本当にストーカーと同じだなと思いつつも、駅からやや歩いたコンビニまで彼女を探しながら歩いていた。腕時計を確認して、残業しているのであればまだかかるかと思い直す。会えないとは、何故だか思わなかった。
肌寒い金曜日の夜だったので、立ち寄ったコンビニでホット飲料を手に取った。彼女が自ら選んで飲んでいたものはミルクティーだったなと思い出す。
忙しなく流れていく人の群れ。この中に、彼女と同じ思考を抱えた他者はどれほどにいるのだろうか。何度も繰り返す瞬きの合間で、ひたすらに、祈る。
俺たちは最速で駆けつけていくしかない。飯田の言葉が、積もっていく。全ての人への最善手を描きながら、たった一人のために動いている足。彼は、今の緑谷を見て何というのだろう。――ヒーローとしては正しくはない。それでも、このまま大勢の中のひとりとして名字を見ていることは出来ないのだと、気付いたからには動かないわけにはいかなかった。
そして、時計の針が何周かした頃、コツンと静かにパンプスの靴音が耳に届いた。