09
雄英高校に侵入者が入った。数日前の警報が作動したあの日から実しやかに流れている噂は、原因は過激なマスコミではなかったのだというものだった。一体誰がということや目的の何一つ、何の尾ひれもついていない噂は、まるでそれが本当だったことを告げているような気がして気持ちが悪かった。しかしそれも穏やかな学校生活が続いていくうちに所詮噂は噂であったのだと、話題にも上らなくなっていたそんな折である。
ヒーロー科の校外学習中に敵の襲撃を受けたという連絡が、授業の終わった放課後に担任から持ち上がった。今日の部活道の一切は中止とし、速やかに帰宅することだけを報せた言葉に、嫌な汗が全身から吹き出す。担任の言葉に悲鳴じみた声が上がるがそれらはこれからの帰路を心配するもので、ぼやぼやとしてふやけた音として耳を通り抜けていった。被害状況の詳細を一切伝えない担任は、もしかしたらそういった伝令に則っているのかもしれない。とにかく今日は早く帰りなさいと再度帰宅を促す言葉を残して教室を去って行った担任の後を追うように、気づいたら教室を飛び出していた。
帰宅を急ぐ生徒たちの間を抜けて、そうでなければいいと祈りながらも足は保健室に向かっていた。大丈夫、となんの根拠もない言葉だけが、息の詰まる喉元で燻ぶっていた。
保健室へと続く階下の階段はA組を抜けた先に在る。やけに静かなA組のドアの小窓から中を覗き見ればがらんとしていて、置きっぱなしの荷物だけが机の周りにあるだけだった。覚束ない足が、ふるふると竦んでいるのが自分でもわかる。
すぐ先の階段の方から、大人数の足音が響いてきた。曲がり角から最初に顔を出したのは、切島だった。
「――緑谷! 何で、A組に」
彼を筆頭にぞろぞろと続く後続には見知った顔ぶれが並ぶけれども、その中に出久の姿はない。からからに乾いた口の中で、出久の名前が出るより先に声が弾けた。
「大したケガじゃねえ」
切島の少し後ろに立っていた爆豪だけが一人歩みを止めずに、見向きもせずに、次いで保健室だとも言った。もう既に彼は名前を通り越して背後に居り、そのまま自身のクラスへと入っていく。その音を最後まで聞くこともできずに、誰かの呼び止める声を振り切って駆けだした。彼が大したケガじゃないというのなら、そうなのだろう。良くも悪くも嘘は吐かない人だとは知っている。それでも、瞼の裏に結び付く虚像はその不安を駆り立てるばかりだった。
階段で何度か転びそうになりながらも辿り着いた保健室の前には警察官が仁王立ちしており、階段を下り切った時から見られていた。乱れる呼吸も整えずに、彼らの前に立てば、一層怪訝な顔をされる。
「いず、くが、緑谷出久の、家族なんです」
「――少し待っていなさい、今はまだ立て込んでいるから」
難しい顔を横に振られたが、ただ大丈夫だとそれだけ分かればいいのだと願った掠れた声にさえ、渋い顔をされた。また、あの時のように、気づかないうちに誰かの何かが変わっていたらと思うと、目の奥がちりちりと焼けるような痛みが走る。詰まる呼吸が苦しくて漏れた息が熱い。これ以上、何を考えてもぼろぼろと情けないほど簡単に溢れてくるそれらを塞き止める術を思い浮かべることもできなかった。
「――どうかしたのか?」
「塚内警部…!」
ややもすると保健室のドアが開き、中からひょっこりと顔を出したのは彼らの上司らしく、ぼろぼろの顔の彼女と戸惑う部下の顔を二度ほど往復させると、ふむと頷いた。
「君は?」
「……緑谷名前、です」
「――名前?」
少しの間をおいて、奥から聞こえてきたのは耳馴染みの良い声で、その瞬間張り詰めていた糸がぷつりと切れた。塚内と呼ばれた彼は誰かからの同意を得たらしく、柔らかく入室を促す。
つんと鼻を衝く保健室独特のにおいだ。白い部屋に薄黄色のカーテンは空調の風に揺れ、設えられた簡易な二つのベッドが並んでいる。ふるりと、鳥肌がたった。手前には痩せたオールマイトの姿と、その奥には点滴を打つ出久の姿があった。彼の、言うとおりだった。
「――なんともないよ、ほら、全然怪我もしてないし」
怪我を癒してもらったのか、もうそこには傷跡もないまっさらな肢体が袖をめくったジャージの下から伸びている。少しばかり青褪めた顔だけが浮いていて、彼は大丈夫だよと力こぶを作ってみせた。
頼りない足取りでベッド脇まで歩み寄れば、苦笑いを浮かべた出久が見上げている。へたりと、やっと膝から力が抜けた。
「な、名前!」
「……いず、」
硬いシーツに顔を埋める。このにおいは、嫌いだ。
「……よかった、」
ぎゅうと、彼の右手を強く握りしめた。
分かっている。これが、彼の目指すものであり、勲章なのだ。
「なんともなくて、よかった」
――分からない。身体が壊れる痛みはどんなに辛いだろう。馴染まない個性が身体を傷つけるたびに、またこうして鮮やかな傷もなくなるならばそれは大丈夫であったなどと言えるのだろうか。
ぐずぐずとする鼻を啜り、濡れたシーツから顔を上げることもできないまま、指先を解くこともできない。膝を打ち付けた床はひんやりとしていて、自覚を促すのだ。
「緑谷少女」
オールマイトの声が、この小さな空間に静かに響いた。
「すまない。私がもっと早くに、駆け付けていればこんな事にはならなかっただろう」
――こんな風な言葉を、以前にも聞いたことがあるような気がした。出久のぎこちない手が柔らかく握り返し、その上から、もう片方の手が覆いかぶさる。点滴のチューブがかちゃりと音を立てた。
「……分かってます、貴方のせいなんかじゃなくて、ヒーローはこういう仕事なんだって、ちゃんと、分かって、ます」
言い聞かせるように何度も分かっていると呟いた声は、分からないのだと叫びたがっては震える。彼が懸命にトレーニングに励んでいた時から、個性を飲み込んだ時から、雄英高校に受かった時から、分かっていた。こうなることは目に見えていた。ヒーローになりたい彼の心の頑なさなど、一番に、分かっているつもりだ。
傷つけることも厭わない敵の殺意は、彼の歩みを止めてはくれない。誰かが竦むような惨状でも、彼の決意を揺らがせてはくれないのだろう。
ごくりと、出久の喉が鳴った音が聞こえた。
「……名前」
零れる嗚咽を何度も追いやり、ワイシャツの袖で目尻を拭ってから、ゆっくりと顔を上げる。そこには、ぐしゃぐしゃで、今までの中で一番に下手な笑い顔で、それでも両の目だけは確りと名前を映している似て非なる顔があった。
「強くなる。絶対、名前にも、誰にも心配かけさせないくらい、強くなる。だから、もう少しだけ待ってて」
――生まれたときから一緒だった。これからも、恐らく互いの隣には確かに在り続けるだろう。そうだというのに。
「……うん、絶対。約束」
途方もない距離が、二人を隔てている。
透明な嘘が積み上がっていた。
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