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廊下から差し込む西日が、白い壁を染め上げている。ぺたぺたと一人分の足音を鳴らせる名前は、出久の荷物をまとめるために一度A組に戻ってきていた。
保健室の先生はリカバリーガールと呼ばれているらしく、彼女の自己治癒力の活性化という個性から出久はあの後うとうととし始めて眠ってしまったのだ。点滴が終わるまでにも時間はあり、またオールマイトが警察官と何やら難しそうな話を始めていたので、起きるまで教室で待っているしかなかった。
すれ違う生徒の姿もおらず、上履きが立てる反響した音ばかりが響いている。当然のごとく、A組からも聞こえる声はなく、僅かに開いていた隙間に指を指し込んで開ければ、窓から入り込む西日の眩しさに思わず目が眩んだ。黒い影が、細めた視界の中で動いていた。


「お、緑谷」
「……切島君、まだ残ってたんだね」


窓際の一番前にある椅子の背もたれに寄りかかっていた彼は、携帯をいじる手を止めて軽く手を挙げた。既に制服に着替え終えているにもかかわらず、誰かを待っているのか帰る素振りはない。
――教室が痛いほどの赤にまみれていてよかった。ひりひりと弱い刺激を訴える目尻を、冷たい指で隠した。
名前が出久のペンケースが置いてある窓際の前から三番目の席まで近づくと、彼は少しだけ身じろぎをして言葉を探す。


「――緑谷どうだった、ってえっと、保健室行ったほうの」
「何ともなかったよ、点滴終わってちょっとしたら帰れるっていうから、あと四十分くらいは待ちぼうけかな。――あと、私は名前でいいよ、どっちも緑谷だから」


思わず漏れてしまった笑い声に彼は少しだけバツが悪そうに、項に手をやると分かったとはにかんだ。それじゃあ名前だなと確認するような口ぶりで呼ばれた名前は、生まれてからずっとお決まりの流れだ。まだざわついていた心臓を整えることもできなかった余韻は、会話をうまく繋げることさえ難しく、微笑した切島の声だけが落ちる。
出久のペンケースの閉まりきらないチャックの金具が赤く反射するのを見ながら、隙間を埋める言葉を探す。重たい目蓋を見つけられたくなくて身体を切島の方にも向けられず、夕日の赤から逃げるように俯いた。


「……そういやあ、なんで名前はヒーロー科に入らなかったんだ? 双子なら個性とか同じじゃないのか?」


入学して間もない少ない共有の情報から絞り出してくれたのだろう話題に、どきりとした。吸い込んだ空気が冷たく鋭い。


「…双子だけど二卵性だから、同じ個性じゃないんだ。ヒーロー向きじゃないから、普通科にしたの」
「そうだったのか…ごめん、この話嫌だったか?」
「ううん、全然。ヒーロー目指したことないから、気にしてないよ」


手持ち無沙汰を装って出久の席に深く腰をかければ彼の視線は名前の旋毛を映すばかりで、彼女は浮いた両足をぶらつかせる。緩い上履きの踵が、床を擦っていた。
同じ高校に入り、ヒーローの卵として成長していくのであろう出久の近くにいるということは、少なからず個性の話は避けられることではないだろうと分かってはいた。それだけ、出久の個性は鮮烈なのだ。良くも悪くも。
切島の言いよどむ声に、何か良くない部分を想像してしまったのか、気まずさが顔を出した。


「――切島君は、どうしてヒーローになりたいって、思ったの?」
「どうしてって……誰かがピンチの時に守ってやりたいって思ったんだ。俺の個性って全身が硬化するっていうので、まあ地味なんだけどさ。こういう個性だから前突っ走っていくのも俺の役目だと思うし、動けなくて守れなくって、そんで後悔とかしたくねーって思ったから」


「なんか改めて言うとちょっと恥ずかしいな」と照れ笑いを隠すように、彼は親指で鼻頭を弾いた。
踵は揺れるのをやめていて、いつの間にか空は暮れなずみ、教室の肌寒さだけがブレザーの隙間から入り込んでくる。名前を呼ばれて、初めて視線が落ちていたことに気づいた。弾かれるようにあげた顔を、つまんなかったよなと苦い表情で見つめられる。がたんと、勢い立ち上がった拍子に、椅子が大きな音を立てた。


「っそうじゃなくて! ……ごめんなさい、私が、聞いたのに」


守りたいと言った切島の言葉は揺らがない。救けたいと言った出久の声が反響する。ヒーローは自分自身の身を呈することが美徳で、あの人も、それは当然のことなのだと、だからこそのヒーローなのだと言った。
誰かの代わりに負う傷ばかりが彼らの価値に、その深さなど誰も知ろうとはしないで。


「……例えば、例えばだよ。切島君が誰かを守ってくれて、それで切島君自身が怪我しちゃったら、それって、すごく、」


おかしいことだよね。
名前の言葉尻を遮るように教室の扉が強く開かれた。二人が同時に見やったその先には、恐らく切島がずっと待っていたのだろう爆豪の姿があった。彼女と彼の不可思議な距離感をなんとなく感じてはいた切島は、あ、と意味のない声を小さく漏らした。


「……チッ」


教室の端からでも聞こえる程の舌打ちがなる。出久の列の席なのか、黒板の前を通って真っ直ぐに歩いてきた彼は、切島が凭れている椅子の前にある机に引っかけていた鞄を肩に担ぐとそのまま踵を返した。


「行くぞクソ髪」
「あ、おいばくご――」
「さっきは――……、さっきは、ありがとう」


あの日から止まっている。彼が出久に向ける目が、あの日から変わっていたことに気づいている。――どうすればいいのかなど、ずっと分からなかった。
A組の教室で出くわした時、真っ先に求めている答えを用意したのは彼だ。
今まで呼んでいた名前は吐いた息となり、音にすらならなかったのは下らない悪足掻きだった。
今度は足を止めた爆豪は、不機嫌さを隠しもしないまま直ぐに振り返った。


「――同じようなツラしやがって、クソうぜえ」


ぎりぎりと握りしめる拳の音が聞こえそうなほどに、込められている力は強い。その赤く揺れる双眸から少しも逸らすこともできず、爆豪が紡ぐ次の言葉を待っていた。


「お前も、知ってたんだろ」
「……何の話?」
「知ってて、嘘吐いとったんだろうが……!」


――彼に吐いていた嘘。思い当たる節は一つしかない。けれど、それは切島のいる目の前では話せないことで、爆豪にさえも理由は伝えてはならない。彼からひしひしと伝わるほどの苛立ちの理由など明らかで、それが酷く腹立たしかった。あの個性にどれだけのリスクがあって、どれだけの痛みを味わったかなど、爆豪には何一つ分からないだろう。名前にも、到底分かり得ないことなのだ。――ひどい皮肉だ。


「……私、いずじゃないよ」
「んなこたぁ知ってる」


間髪入れずに噛みつかれるような返答は、行き場のない焦燥のようなものの気がした。十数年来の出来損ないが手にした個性の正体が何なのか、見つかりもしない答えの気持ちの悪さに彼の目尻は鋭さを増すばかりだ。
出久のよれたペンケースを握りしめて、あの夕陽にも劣らない赤を見た。


「だから、知らないことなんて、いっぱいある」


眠っている出久の見る夢は、どんなヒーローが活躍しているのだろう。彼が望んで手にした個性は、本当にいつの日か体に馴染んでくれるのだろうか。
帰り支度の終わっている出久の鞄に最後のペンケースだけを突っ込んで、二人から背を向けるように机の合間を縫っていく。切島の呼び止める声が弾けるが、振り返ることなどできなかった。
一歩も進めずにいるのは、他でもない自分だけなのだ。

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