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合同演習の授業をした週の日曜日のこと。
明日提出期限の課題と黙々と向き合っている時、ベッドに沈んでいた携帯が震えた。
着信を告げるバイブレーションに急いで携帯を拾い上げると、そこには恐らく初めて見る名前が表示されていた。
何度も目を瞬かせてから、応答のボタンをタップして耳に宛がう。僅かな電子音の向こう側で、呼吸が詰まる音がした。


「…もしもし」
『……お前、今寮にいんのか』


――紛れもない、爆豪勝己その人の声だった。
電話番号なんて、中学生に入ったばかりのまだ険悪ともなんとも形容しがたい頃に交換しただけの記憶だ。しかもそれも事務的な何某かが理由だったと思う。
思わず声がどもりそうになるのは慣れない相手だからで、それは、意外にも彼も同じだったようだ。一瞬のなんともいえない沈黙。外にいて寒いのか、爆豪が鼻をすんと鳴らして息を吐いた。


『…寮の前に居っから、秒で出てこい』
「…っふ、なにそれ」


沈黙を溜めて出てきた一言に笑ってしまったのに理由はない。寒そう、と身支度を整えながらごねるような口調をすると、俺の方が寒ィわと返ってきた。そうだろうねとマフラーを巻きながら間延びした声を出してしまえば、秒だっつってんだろだなんていう軽快な切り返しにまたなんとなく笑ってしまった。
ブーツを履いて外に出ると、C組の寮の前で本当にあの爆豪が両手をポケットに突っ込んで立っていた。


「遅ェんだよ」
「…今日が雪って知ってて呼びつける勝己君が悪い」
「は! ちったァ動かねーと丸くなんぞ」


朝から断続的に降る雪は積もるには至らず、うっすらとタイルを白く染めるだけだった。寮の門灯で穏やかなオレンジを反射させる雪に入学してからもうすぐ一年が経つのだと、目の前に立つ爆豪を見やりながらあの朝日を浴びる白い砂浜を思い出していた。
彼は不意に背中を向けるとさくさくと歩き始めた。どこに行くのと問いかければ黙ってついてこいと、まるで誘拐犯のような口ぶりに白い息を吐く。彼のマフラーに埋もれる口元からも同じ白が霧散していて、思わず小学生の頃の背中が重なった。寒さに背中を丸めていたあの頃よりもずっと大きくなった背中は、少しだけ背筋を伸ばしている。雄英のグレーのブレザーはまだ肩を余らせていて、これから先だって彼はもっと大きくなっていくのだろう。
歩き進めるたびに、街灯のオレンジが彼の背中を染めていく。薄い炎の揺らめきのようで、あのコンテナの中でも、神野の更地でも、こんなふうにしていつも守ってくれていたなんて考える。
――そういえば何故、こんな休みの日に彼は制服を着ているのだろうか。
薄い雪を踏みながら、一メートルの距離を開けている背中に呼びかける。


「どうして、制服着てるの?」


寮棟が並ぶ場所から恐らくは彼の日課のランニングコースを歩いているのだろう道の途中で、おもむろに振り返った。
左に視線を移せば、りんご飴を齧りながら涙を堪えていたベンチがあった。
爆豪は言葉もなく大股で二人の隙間を詰め寄ると、名前の右手を掴んで手のひらを返し、そこにブレザーのポケットから取り出した剥き出しの何かを放った。
――八月に同じものを出久から写真で送られてきた。
ヒーローと書かれた免許証は温かく、恐らくは彼はずっと握りしめたままだったのだろう。どういう気持ちで握りしめていたのかも、今なら少しだけならわかるような気がする。何せ、緑谷出久に遅れること約三ヶ月で、これを手にしたのだ。そして、名前は彼にヒーローにはなれないと啖呵を切った。


「仮免。受かった」


免許証から顔を上げると、顔写真よりは険しくない顔つきの彼が名前を見下ろしていた。
赤い瞳が街灯に照らされて、微かに揺らいでいた。


「…うん、おめでとう」
「俺は、誰よりも強ェヒーローになる」
「…うん」
「そんで、俺が、お前を守る」


――出久にも言われた言葉。守ると、そういう対象にしないでと否定した言葉。
爆豪にだって、背負われたくなんてない。それは、同じだ。
凍り付きそうな唇を薄く開く。
そういうふうに言わないでと、たった一言。それだけだ。だというのに、声にならない。
――彼の背中なら、きっと大丈夫なのかもしれないだなんて、根拠のない安心を覚えている。


「…だから、もう個性使わなくていーだろ」


雪が、肩に乗る。彼の制服の、余った肩に乗る。
雪の降る日はひどく静かになる。音がすべて雪に吸い取られて、だというのに、爆豪の寒々しい呼吸も、名前の心音も、はっきりと耳に届く。


「……私、は」


後遺症で焼けついた喉。吐き出した炎が許容量を超えるとひどく痛む。リカバリーガールには、風邪だって引きやすいだろうから気をつけなと念を押された。使えば使うほど、少しずつ爛れていく可能性だってあるだろうからと。彼がこの事実のどこまでを知っているかは分からない。出久にだって、使うほどに爛れていくかもしれないだなんていう危険性の話はしなかった。
それでも、自分を守るための手段の一つとして、個性がある。そのために、この気難しい隣人と向き合い続けた。
瞬きをひとつ。白く吐いた息の影で、幼い頃の爆豪の影を見た。
――エリの個性で巻き戻されていく記憶の波間で見た姿。もうずっと忘れていた。そんな約束を交わしたことなど、頭の何処にも思い出す隙間もなかった。爆豪はずっと、緑谷出久と緑谷名前にとって敵とも呼べるようなその人であったから。彼の言葉がいつもいつも圧し掛かっていた。無個性でヒーローを目指していた出久の心をずたずたに殴りつけて切り刻んでいた。
それでも、出久の隣に爆豪はいる。これからも、彼の隣には出久がいて、名前がいる。向き合おうとしている爆豪を、それを受け入れている出久を、目にしておきながらいつまでもあの十四才の四月のまま止まっているわけにはいかない。


『名前、おれは――』


個性が発現した日だっただろうか。――いや、個性など、未だ彼の中で生まれてもいない頃だったかもしれない。


『名前、おれはヒーローになるんだ。そしたら、名前のことはおれが守ってやる。なんてったっておれがいちばん強いからな!』

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