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「……約束、勝己君は、覚えてた?」
あ、と眉間に皺を寄せた彼ですら、どうやらもう覚えていないようだ。
その表情に少しだけ安心してしまったのは、遠い昔の約束のせいで彼がここにいるわけではないのだということを知ったからなのかもしれない。うまくは言えないけれど、それでも、恐らくこの胸の内にあるものがもうずっと変容しているのには誰に言われずとも分かっている。
「…ヒーローになるんだね、勝己君も。きっと、誰よりも強いヒーローに」
手の中に収まる免許証に、雪が積もる。すぐに水滴になって、また、白が落ちる。まるで涙のようだねと、笑うには名前の喉が震えてしまっていた。
「……っ…守るだなんて、言わないで…」
誰かの足を、背中を、重たくさせたくない。
免許証を彼の胸に押し当てて突き返した。
――出久の個性も、名前の個性も、周りの環境も、容赦のない敵も、傷だらけになることを厭わないヒーローも。変わっていくものを、望んだことを、夢見た未来を、そのために捨てるべきものを。そういうあまりにいろんなことを忘れないでおくと、そう選んだのは名前だ。選んでおきながら、彼の胸に突きつけたヒーローを示すそれから手を離せなかった。
大丈夫だと笑った覚悟とこれは別のものだ。雨に打たれる紫陽花を見下ろしながら拭いきれなかった不安や後悔は、もう一生だって消えてはくれない。
俯いたまま何も言えなくなった名前の右手を、爆豪が掴んだ。免許証ごと握りしめられた手は、文化祭のあの手形などよりも大きく思えた。
「ぐだぐだ訳わかんねえこと言ってんじゃねえ、黙って守られとけ」
「そうじゃない、勝己君だって、守んなきゃとか、そういうの、足が重くなる、いつか絶対、負担になる!」
「お前一人分くらい重いわけねーだろ! ――舐めんな、俺ァ全部勝つ。そのためのヒーローだろーが」
「…っ…怖い…、やっぱり、ずっと怖いよ」
大丈夫だよだなんて出久の手を取ってみせて。どれだけ言葉も想いも噛み砕いて飲み込んだとしても、胸に巣食う不安も恐怖もそこに居座ったままだ。そんな弱さを受け入れても、怖いままだ。
爆豪の温かな手が右手を強く握る。雪など溶かしてしまうようなこの熱に、僅かに盾にしていた弱さを隠す嘘も全部、溶かされていく。
左手で両目を擦り付けて、顔を上げた。
「……でも、だから、私にだって、背負わせて。自分のことくらい、出久や、勝己君のこれから先のいろんなことも、私にだって、背負わせて」
目、逸らさないから。
守るだなんて、そんな場所で安心していたくない。出久にだって起こるかもしれないあらゆるものが、爆豪にだって降りかからないなんてことはない。誰にも等しく、それでいて不公平に、存在している悪意に身を捩られる。守るからとそう言ってしまえば、名前が背負うはずだった痛みや傷を代わりに彼らが背負ってしまう。お互いがそれに安堵して慣れてしまう。そんなものが、正しいわけがない。それだけは絶対、言い切れる。分かる。
彼は僅かに目を見開いて、それからぐいと名前の右手を引っ張った。
「――!? か、勝己、く――!?」
「――名前、」
ぽすりと彼の胸に頭を寄せる形になるも、爆豪の右手がポケットに仕舞われたままのせいで中途半端に名前が寄りかかっていた。
どんな意図によるものなのかを図り兼ねて、恐る恐る顔を見上げる。彼は何かを言いかけて、口を噤んだ。
――爆豪の早い鼓動が聞こえる。雪の日だろうが変わらない、人よりも高い穏やかな熱に頭が熱くなっていて、茹だりそうな脳内で爆豪が何も言わない代わりの適当な言葉の入った抽斗を漁る。見つからない間にただただ名前の狼狽えた声ばかりが落ちていた。
この距離も二回目だなんて努めて冷静になろうとあの敵連合に囲まれた日を思い出そうとしても、あの日は半袖でもっと熱かったななんてどうでもいいことまで思い起こされて後悔した。
「――あと二年、待ってろ」
「…え、う、ん…?」
「まだ仮免ヒーローだ。プロんなるまで待っとけ」
彼はそう言って離れていくと、ポケットに入れたままだった右手を抜いて名前の頭をくしゃりと撫でた。
何を、と思わず口をついて出てしまいそうになって、飲み込む。
「…う、ん、待ってる」
罵詈雑言を吐く口は流暢だというのに、こういう時ほど言葉が足りない人なのだということを初めて知った。足らない言葉でも、それでも右手を通して伝わる熱が恐らく彼の言いかけた言葉だったのだろうなと、幼馴染みに似て同じく物語るような彼の細まった赤い双眸を雪の降る夜に見つけた。
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