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あれから、社会は大きく変わった。変わりながらも、それでも個性という変わりようのない代物を抱えて生きていく社会は、依然としてヒーローと敵という構図を崩すことはできなかった。
多くのヒーローが、一般市民――解放戦線に自らの意思で参戦していた彼らをそう呼ぶべきか、分からない――が亡くなったあの暴動で前線に立っていた学生たちは学徒動員だと非難され、雄英高校も怒涛の忙しない日々を送っていた、しばらくは授業もままならないような生活が続いたが、それもゆっくりと元の日常に戻っていった。
そうして、季節は巡っていった。
十四歳だったあの四月の教室。出久とともに巻き込まれた敵犯罪。そうして出会ったオールマイト。同じ敵に人質に取られた爆豪を、救けようと走り出した出久。
十数年と生きてきたたったの一日で、出久の人生は劇的に変わった。名前も、そして爆豪も、あの日をきっかけに数え切れないほどのあらゆるものが変容した。
C組の教室で柚希や澪、紗代たちとこれでもかというほど写真を撮り合い、雄英バリアと謳われた校門で手を振った。
一年生の夏まではこの並木道を歩いて登校していた。夏休みも始まったばかりの頃にまさか敵連合に拐かされ、それからというもの、出久と実態のない大丈夫という薄氷の上を歩いていた。
コンクリートに桜の花びらが舞い落ちる。一面が薄桃色に染まっていて、なんとなく、振り仰ぐ。
――校門を出たばかりのところで、爆豪の姿を見つけた。
雄英高校に通うのもこれが最後の日だというのに、相変わらず制服を着崩している。彼もこちらに気づいたようで、歩幅を大きくして歩み寄ってきた。
「勝己くん」
「ンだてめ、一人で帰んのかよ。クソデクは」
「オールマイトと積りに積もる話をしてる。あんまりに長くなりそうだから、先帰っちゃおうと」
そーかよ、と吐き捨てた彼も、本当はオールマイトと話をしたかったのかもしれない。
今から戻ればと、そう言おうとしてやめた。帰ってくる言葉が、想像に難くなかったのだ。
「…来月から、ベストジーニストの事務所なんだってね」
「ああ。お前、東京の大学だろ」
雄英高校に通っていたこの三年間は、あんまりに激動すぎて筆舌に尽くし難い。ただ、あの一年の三月で、ベッドに横たわる二人を見て決めたものがある。背負っていくこと、忘れないでいくこと。そのどれもが、あんな距離感のままではどうにも成せない理想論に過ぎないことを知ったのだ。
「勝己君、この後暇?」
「あ? なんか用でもあんのか」
「うん。折寺中、行こうよ」
予想通りの表情に隣を歩きながら堪えきれずに笑ったのを、爆豪は意外にも嫌な顔はせずにこちらを見ていた。
電車を乗り継いで四十分、最寄りの駅から歩いて数十分。あの頃と少しも変わらずに折寺中学校は其処にあった。中学校はまだ授業中なのか、閉ざされた校門から中に入ることは許されなかった。フェンスから眺めていると、校庭で体育をしていたクラスの担任が三年生の頃の担任だったことに気づいた。爆豪は興味もなさそうに彼を見ながら、話が長かったと思い出したように言った。彼は生徒に目がいっていて名前たちを視界に入れる素振りもなく、名前はぐるりと学校の裏口に回った。
入れるわけではもちろんなかったので、裏口のフェンスにそのまま凭れて目の前に立つ爆豪を見上げた。
彼はポケットに手を突っ込んで、校舎を見つめていた。それからゆったりと視線は動いて、体育館、ゴミ捨て場と見てから最後に名前を映した。
「…勝己君は、ほんと、嫌な人だった」
「……喧嘩売っとんのかてめえ」
「まさか、こんなふうに隣に勝己君が立ってる日が来るなんて、一ミリも想像したことなかった」
卒業証書が入った黒い筒を手持ち無沙汰に両手の中で弄ぶ。こんな紙切れ一枚で、この三年間を語ることなんて出来もしない。
あの後だって何度も何度も出久と爆豪には泣かされっぱなしだ。この二人の根拠のある無茶に対する耐性はいつまで経ってもつきそうにはない。それでも、三人で他愛ない話ができる。
飛び降りて死ねと、言い放った彼の言葉は消えない。忘れもしない。あの頃の名前の心はヒーローに対する嫌悪と猜疑でいっぱいで、彼のその言葉にさえ安堵したことも、忘れない。ヒーローになっていく高校生の出久と爆豪の背中を見ながら、終ぞ本物の"ヒーロー"になってしまうのだという落胆を、少なからず胸の何処かに抱えている。それを、また違う名前自身がまだ諦めていなかったのかと笑っている。こんな矛盾を、おそらく一生抱えていくのだろう。――そういうものだ。それでいい。
爆豪は何も言わずに黙っていた。真っ直ぐに名前だけを見つめる赤い瞳に、思わず笑った。
フェンスから身を起こして、後ろで指を組む。
「同じ場所には立てなくても、同じ景色を見てたい。――だから、今度は勝己君が六年待つ番」
「長ェし待たねえ」
少しは悩んでもくれるかと思っていたのに間髪入れずに否定が返ってきて、図らずもむくれた。
「私、二年待った」
「三倍じゃねえかふざけんな」
「待ってて」
「待つかクソ」
眉一つ動かさずに頑なに拒む爆豪から視線を逸らす。期待をしていた分、逡巡も挟まない態度に肩を落とした。
――彼の隣に、並びたかった。もっと、踏み慣らした地面のように確たる足場に立ちたかった。そのために、名前にはまだ時間が足りなかったのだ。
頬を膨らませるような子供ではないにしろ、そうでもしたい気分だ。彼がプロのヒーローになるまで二年は待ったというのに。あの雪の日の「二年待ってろ」と言った言葉は名前なりに、ヒーローなんかなれないといった彼女に、プロヒーローになるまでの二年だという解釈だった。そしてきっと、二年が経ったら、この歪んだ関係性に変わりが来るのだろうと思っていた。そういう期待も、なかったとは言わない。
「…じゃあいい」
逸らしていた目を持ち上げる。爆豪は、どこも変わらない顔で名前と名を呼んだ。
「好きだ」
二年つったろ。
彼はそう言って、両手で名前を抱き寄せた。
――住宅街でも昼時を少し回った時分だからか、人通りが全くなくて良かった。今なら指先まで全てが真っ赤になっていそうな気がして、どうにも出来ずに爆豪の甘い匂いのする胸元に額を押し付ける。夏合宿のあの頃よりも随分と逞しくなって、制服の肩の余りはなくなって、身長だって伸びた。おかげですっぽりと彼の胸に収まった名前の身体では身動きのひとつも取れそうにない。
――喉の奥で言葉が燻っている。彼と自分の体温で籠もっていくひどい熱に頭がぐらぐらと煮えそうだ。何も言えずにいる名前にどう思ったのか、なおさら爆豪は抱きしめる腕を強くする。それがなんだか、無性に泣きたくなった。
彼のブレザーの裾を握りしめた。もう明日から着なくなる制服の皺なんて、誰も気にしない。
「…っ…勝己君は、ヒーローだね」
泣きそうで掠れた声なんて、彼はすぐに気づいてしまうのだろう。するりと両腕が離れていく。不服だと物語る目が、細まっていく。
「…お前の一番じゃねーんだろ」
「えっ…うん、グランファが一番。二番は出久だから、勝己君は三番だね」
「ンで俺がデクより下なんだよ!」
「そういうところだよ」
「絶対ェ負かす」
爆豪の吊り上がった目に笑った。
これからも、爆豪の隣に出久は並んでいる。名前もいる。そう思えることが、柔らかな真綿に包まれるように心地がいい。
「…うん、でも、好き、だから、ずっと隣にいたいのは、勝己君だけだよ」
きっと真っ赤になって涙を湛える顔で言っているのだろうと思うと、目を逸らしたい気持ちにもなるがそれだけはなんだか悔しくて、冷たくもない手で両頬を挟んで冷ます。爆豪は、なぜか一瞬校舎の方を振り仰いで、盛大に舌打ちをかました。
それから、名前の左手を掴んで引き寄せると、かさついた唇が降ってきた。
「――六年だろうが十年だろうが何年だって待ってやる、けど、逃げんなよ」
本当に、彼の選ぶ言葉は粗暴で、優しくはないというのに。
柔らかな声に、また泣きそうになって怒られた。
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