17
けが人はすぐさまリカバリーガールのもとへ運ばれる。名前が息を切らせて保健室の前に辿り着いたころには、出久は既に中で横になっているようだった。
「――もうコレ、キレイに元通りとはいかないよ」
ドアノブにかけた手を止めた。くぐもって聞こえるリカバリーガールの声がドア越しに聞こえる。
ひどい消毒液のにおいが、鼻を衝いた。
『もう、諦めたほうが――』
もう過ぎ去った声だと分かっている。それなのに、その声は今しがたこの扉の中から聞こえたものなのだと錯覚する。本当に、今聞こえた声ではないのだろうか。
脂汗が、額を這う。重厚な扉が、目の前にある。この扉の奥では、いつも、誰かが何かをなくしている。
頭の奥で、ひどい耳鳴りがした。
――どたどたと階段の方から響いた数人の走る足音で意識が晴れた。逸る心臓がどうしてだか隠れろと、硬直した足を廊下の影へと促した。その足音は保健室の前で勢いを止めることなく、そのまま扉を開け放ったようだった。
「デクくん!!」
「緑谷くん!!」
足音は麗日たちだった。出久を気に掛ける声が、部屋の中から溢れている。どうやらこのまま腕の治療に入るようで、数言会話を交わしたのちに早く戻りなさいとせっつく彼女の声を聞いた。
「あっデクくん、名前ちゃん、先に来てへんかった?」
「――え、きて、ないけど……」
「私たちより先に走って行ったのが見えたから、てっきり、」
どっか先に寄っとるんかも、とごちた麗日の声は、少しだけ上ずっている。さあさあとはやすリカバリーガールに、しぶしぶといった足取りで引き下がった彼女たちは、もう一度心配する言葉を零してから来た道を辿って行った。
静かに再び閉められた扉からは不鮮明な話し声だけがもれている。それ以外は異様なほどに静かで、薄暗く、もう外は初夏の陽気だというのにひどく寒かった。
足元に何かが絡みついている。靄のかかる、質量をもった影が、いつまでも蠢いている。
――傷だらけの出久をみたとして、何が、言えるというのだろう。
「……そこにいるのは、緑谷少女かな」
いつの間にかオールマイトだけが廊下に立っていて、扉のすぐ脇の壁にもたれかかりながら、影に隠れているこちらを見つめている。衰えた体躯だというのに、どうして、その双眸だけは変わらずに鋭いのだろう。
足元の靄は相変わらず重く、それでも、引きずるようにして影から顔を覗かせれば、目が合った彼は薄く笑った。
「なぜ、中に入らなかったんだ? 少年も心配していたよ、どこにいったのかと」
保健室の扉には手術中のプレートがかかっている。ここでの会話は、出久には聞こえないだろう。
靴の踵を滑らせながら、身体ごと影から抜け出せば、漸く息ができたような気がした。
「……なんともないなら、それで、いいです」
目を合わすことさえ難しく、垂れた頭は上がらない。もはやただの癖になった、口を手で隠す行為は、何を飲み込もうとしているのだろう。耳元で未だ聞こえる声は、心臓を落ち着かせてはくれない。
「――君は、何に怯えているんだ」
笑んでいたのであろうオールマイトの表情が強張ったのが分かった。口中が渇いていく。舌の先から、かびていく。
――白い部屋。清潔で、無機質な壁に、ただ薄黄色の柔らかなカーテンだけが、生きているように風に揺れている。心拍を鳴らす機械音だけが、繋いでいる身体の生死を告げていた。
「――、緑谷少女!?」
「っ、」
肩を掴まれて初めて、足が床を踏めていないことに気づいた。小さな傷ばかりの彼の大きな手が両肩を掴んで、ずるずると落ちていく膝を優しく押さえている。
ジャージの襟のせいで首が詰まる。じっとりとした汗でシャツがはりついて、気持ちが悪い。
ひどく、気持ちが、悪かった。
「……どうして、ヒーローに、憧れるんでしょうか」
綺麗な世界だ。誰かを救け、絶対悪を挫く。けれど、誰もが傷だらけだ。
「……あなたの、その傷は、痛くはないんですか」
オールマイトの、左腹の傷に手を当てた。ワイシャツを握りしめた手に、彼の戸惑う手が重なる。
――丁度、同じだった。
傷は深かった。オールマイトの、傷跡を思い出す。この隠された白の下で流れている赤い血は、その時どれほど流れていたのだろう。どれだけ、辛かっただろう。それが、自分自身の過失によるものでないとしたら、どんなに――。
「――な」
「チユーー!!」
リカバリーガールのそれに、オールマイトが一瞬気取られた。刹那、名前はすぐさま立ち上がって走り出した。
――都合よく時間の所為にしていた。笑っていたから、逃げ出した。どんな言葉も、どんな態度も、それはひとえに心の奥底で苦々しさを与えてしまうだけのものであると。そう決めつけて逃げ出したのだ。
爆豪でも、出久でも、他の誰でもない。
名前だけが、少しも、ちっとも、前になど進めていないのだ。
* * *
「個性使うたびに大怪我って正直見てらんないよねー……」
「名前ちゃん大丈夫かな」
普通科の方から聞こえた声は、爆豪や切島の所にも届いていた。つい先ほど麗日や飯田たちが保健室へと移動していたが、それより先に、駆けていった彼女の背を見ていた。爆豪は深々と椅子に座ったまま前だけを見ている。この声が聞こえているのだろうに。
「……緑谷って、前からこんな感じだったのか?」
「……あ゛ァ゛?」
地雷を踏んだ。これは、かなりの地雷だ。
爆豪の形相が今まで見たこともないほどに敵のそれだ。わなわなと震える両手は今にもこのアリーナを突き破るほどの爆発を起こしそうだった。
「あーいや! 名前がそりゃ心配にもなるわけだよなって思って、よ」
話を逸らすことさえ許されない威圧感に言葉がどもる。彼のそういったところにもう慣れたとは思っていたが、自ら進んで入った地雷原には対処しきれなかった。
しかし、彼女の名前を出した瞬間、地雷の質が変わった。緑谷兄妹は、彼にとってもはや触れてはいけない類の話題だと、頭に叩き込んだ日となった。
「――知るかよ」
「……は」
あふれ出ていた気迫とは程遠いその言葉に、思わず気の抜けた声が漏れた。青筋立ってはいるが、それ以上何も言わなくなった爆豪に、今度は切島が黙るほかなくなる。彼の心情を推し量るには難しすぎる。
ややもすると飯田が次の試合のため彼以外の麗日、蛙水、峰田が周りを見渡しながら戻ってきた。
「緑谷大丈夫だったか?」
「腕の怪我が酷いから手術しないといけないみたい。そのあと治癒してもらえるそうよ」
「やっべえな、雄英卒業するころにはもうボロボロなんじゃねえの」
二つ隣に座っていた上鳴が手をぶらぶらと振る。それほどに彼の怪我は遠目で見ても酷かった。
空いた席に全員が座りながらも、麗日は普通科の席を頻りに見遣っている。
「……名前ちゃん、やっぱりおらんよね」
「緑谷んとこ行ったんじゃねえのか」
てっきり、あの駆けた背中はまっすぐに保健室へ向かっているものだと思っていた。
「すれ違ったのかなあ、私たちが行った時もまだ来てへんって」
「方向音痴には見えねえけど…あ、おい爆豪」
ステージ補修のために飯田の試合でさえまだだというのに、控室に向かうには早い。どこ行くんだとかけた声にうぜえとだけ返されて、さっさといなくなってしまった。
「探しにいったんじゃね? やっぱ幼馴染だし」
上鳴の言葉に、全員が微妙な顔をしたのが正直のところ今の爆豪に対する共通認識ではあるのだと思う。
それから、彼はステージの補修が終わり、飯田対塩崎戦が終わっても席に戻ってくることはなかった。
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