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『――君は、何に怯えているんだ』


オールマイトの声が耳から離れない。
緑谷出久は、名前にとってただ一人の兄妹だ。同じ腹から生まれ、同じ時を過ごしてきた。欠けてしまうことへの恐れ、なのだ。これは。彼の傷が増えることへの、恐怖だ。
――それだけのはずだ。
人気の少ない廊下には一般客が疎らにいるばかりで、雄英のジャージを着ているだけで視線を浴びた。けれど、テレビに映ってもいない顔だと分かればすぐさま興味など失せるようで、視線はすぐに手元の小さな画面に移される。
少しばかり広くなった空間には、壁に大型のテレビが取り付けられており、先程までの試合の振り返りを流し続けていた。いまだに、次の試合は始まっていない。あれだけ大規模の爆発で会場が破壊されたのならば仕方ないのだろう。テレビの前に集まる十数人は、設えられた長椅子に腰かけ、携帯をいじりながら次の試合を待っているようだった。
遠巻きに彼らを眺めながら通り過ぎようとした時、テレビから一番遠い、正面の壁に寄りかかる男が、彼女に聞こえる程度の声を上げた。


「ヒーローらしからぬ顔だ」


湯気の立つ紙コップを片手に腕を組む男の左腕には、新聞社と入った腕章をつけていた。どうやら記者らしい彼は、飲み物を啜りながら名前を一瞥し、テレビに目を向けた。


「そう思わないか。彼の表情や仕草、性格、どれを見ても攻撃的すぎる」


丁度画面には爆豪と麗日の試合が映っていて、男はそれが気に入らないらしい。
――何故、雄英のジャージを着た名前にわざわざ声をかけてきたのかが見当もつかない。記者の一意見に同意を求められたところで、何を記事にされるかたまったものではない。その意見に対して、否定する気持ちもたいしてわかないのだけれど。


「……個性は、ヒーロー向きなんじゃないですか」


心底、今の名前にとってはどうでもいい問いかけだった。心臓に巣食う鉛の重さが息苦しく、男の薄っぺらな笑みに苛立ちを覚えた。
思わず刺々しい返答になりながらも、問いには答えたので、このまま通り過ぎようとした。しかし、その行く手を阻むように、足元に一枚の紙片が落ちる。――随分と、古い記事のようだった。踏みつぶすわけにもいかないので拾い上げ、そうして、呼吸を忘れた。


「――ああ、すまない。それは私がいま追いかけている記事でね、丁度君たちが八、九歳の頃の話だろう? 覚えているかな」


”カーボニウムヒーロー重症、引退か!?”
褪せた、新聞の一面ですらない小さな記事だ。名前の指からすっと引き抜いた彼は、蛍光灯にかざすように持ち上げて眺めていた。まるで、祈るような目だった。
――もうこれ以上、何も、聞きたくない。


「彼は、私の憧れだった。けれど、救護活動中に敵の攻撃を受けて、引退してしまったんだ」
「……そう、ですか」
「――最近になって、この時救護されたのが誰だったか、いくつか候補があがってね。話を、聞いてみようかと思っていたところだ」


記事を抓んでいた形のまま固まっていた指を握りしめる。男の手が、名前の肩に圧し掛かった。
くいと男の方を向かせられ、いきおい彼の顔を、見上げた。その双眸は、先程までの柔らかな色の一切を捨て、ただただ、どこまでも――怒っていた。


「……私は、許せない。ヒーローとは、彼のような人であるべきだ。何故、そんな人が、ヒーローを辞さねばならなかったのだろう?」
「っ、痛――!」
「一体、この日に、この時に、誰に、何があったのかと、私は知りたかったのだ」


片方の手で持っていた紙コップが音を立てて潰れた。彼のシャツの袖口に、黒い染みが飛ぶ。
掴まれた左肩は、記事を抓みながらも残りの指はしっかりと肉に爪を立てていた。ジャージ越しにも感じる手のひらの熱が痛い。まるで傍から見れば親しそうに話しているようにも見えるこの距離感に、誰の目が向けられていることはなかった。
――いくつかの候補だなんて、とんだ大法螺吹きじゃないか。


「はな、し――」
「何しとんだ」


不意に、右手首を強く後ろに引かれた。よろけた肩口が、背後にいた誰かに当たる。目の前の男はわずかに瞼を持ち上げ驚いたような表情を見せた後、スクラップを胸ポケットにしまいながら柔和な笑みを浮かべてみせた。


「いや、つい取材に熱が入ってしまった。貴重な若い意見をありがとう。それでは、期待の新星爆豪くんと――緑谷くんのご兄妹」


男が身を翻すより早く、後ろの彼――爆豪が、手首をつかんだまま歩き出した。振り向き様に見た表情は、光に反射してよく見ることができなかった。


「――知り合いか」


ずんずんと大股で進んでいった彼の歩幅は大きすぎて、小走りでついていれば突然歩みが遅くなる。いつもより怒鳴り散らしていない声も、そんな歩幅の違いにも、それらに気付けないほどには、頭の中は混線していた。
――彼は、紛れもなく、ヒーローを引退に追い詰めたその人を恨んでいるのだ。この六年間、ずっとそれだけを想って、ここまできたのだろう。そして、その相手に、もう辿り着いているのだ。


「――オイ!」
「っ、え、?」


視界をあげれば、爆豪越しに緑の木々が見えた。スタジアムの影が落ちるこの場所は、会場内の喧騒とは程遠い。小鳥の囀りが、草木の揺れる音が、耳を通り抜ける。
両足に纏わりついていた黒い影の重さはない。吸い込んだ空気は、ゆっくりと、肺を満たしていた。
芝を踏む柔らかな感触に、かくんと、膝が抜ける。手首を掴んでいた爆豪もつられて腰を屈めたが、すぐには手を離さなかった。
――爆豪の手は、温かい。昔からそうだ。人よりも体温が高くて、まるで窓から差し込む日差しに似ている。
けれど、左肩を突き刺した熱は、そんな温かさとは明らかに異質だった。思いのほか緩くつかまれていた右手で、左肩を抱く。服と皮膚がすれて痛かった。


「――かつきくん」


初めて声を上げたように、掠れていた。スクラップの記事内容が、頭の中で反芻されている。渇いた芝生を触る指先に、力は入らなかった。


「、何だよ」
「……ごめん、ね」


――昔から、どこにいても、見つけてくれるのは出久よりは爆豪の方だった。高校に入ってから、結局は何度も彼に助けられている。突き放したのは名前もそうであるというのに。まだ、有耶無耶になっているままだというのに。
それでも、あの瞬間爆豪がいなければ、怒りに揺れる双眸から逃げられなかったかもしれない。ありがとおと気の抜けた言葉だけが、静かに落ちた。


「――んなことどうだっていい。あいつと、知り合いかって聞いとんだ」


ふるふると首を振る。見たことなどあるはずもない。言葉も、名前も、交わしたことがない。出久の顔が画面にも映っていたので、確かに、親族関係であるとは見当はつくのだろうが、彼は兄弟と言い切ったのだ。――つまりは、そういうことなのだろう。


「……気に入らねえ」
「、え?」
「向こうはお前を知ってて声かけてきてんだろーが、危機感もてよクソが!」


再びがしりと掴まれた腕に引っ張られて立ち上がる。放っておいてほしいのに、彼はどうやらそうはさせてくれないようだ。今日だけでいろいろと揺さぶられたせいで、感情の整理が何一つ進まないというのに。
顔面一杯にそんな心情が現れてしまったのか、爆豪は大きなため息とまた目を吊り上がらせて言った。


「お前が戻って来ねえっつって丸顔たちがうるせえんだよ」
「まるがお……?」
「いいからはよ戻れや!」


放り投げられるように、そのまま生徒席へと続く階段まで引きずられ、爆豪は乱暴な足取りで試合会場の方へと向かっていった。
丁度、会場準備を終えたアナウンスが流れ、十分後に試合が再び始まることを告げていた。
階段の踊り場で、ただ、力なく座り込むことしか、今の彼女にはできなかった。

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