19
その日は酷く蒸し暑かったのを覚えている。父はもう既に家には留まっておらず、仕事に出かけた母の帰りを、いつも遊びに行く公園で待っていた時だった。
突き抜ける青空。大丈夫だと笑うあの人の顔。全身が、燃えるように熱かった。
『わたしと、おかあさんだけの、秘密がいい』
母はこの日の約束を、恐らくまだ守り続けてくれている。
* * *
ポケットに入れた携帯が休みなく鳴っている。間もなく決勝戦というところで、頭の中の糸が切れた。絡み合っていた糸を解くのが面倒で、もういっそ、考えることを放棄したほうが楽だった。
『名前ちゃん、大丈夫? 今どこいるん?』
似たような所在の行方を問うメッセージが何件も続き、最新のそれは麗日からのものだった。大丈夫、と既読をつけて返信しようと指を動かしながら、どこも大丈夫ではない自分に気づいてしまった。
出久がヒーローになるために雄英を目指し始めてから、変容していたのだ。どこかで向き合わなければいけないと、分かっていたのに後回しにしていた。なかったことになどなる筈もないと、そうしてはいけないのだと、そうする資格さえも持たないのだと、分かっていたのに。
――向き合う勇気が、ない。
「……わたしが、」
いなければ。
――断続的なバイブ音が踊り場で反響する。組んでいた指を解き、画面を見れば出久の文字があった。これ以上心配をかけさせてはいけない。折角の体育祭なのだ。
通話ボタンをタップして、ゆっくりと、耳に宛がった。
『――あっ出た! もしもし!? 今どこに居るの!?』
『……ごめん、リカバリーガールのところ行こうとしたんだけど迷子になって、あとめっちゃお腹痛くなった』
心配かけてごめん、と笑いながらそう言えば、少しの間をおいて、
『……名前、今、ほんとにどこにいるんだ』
やはり、双子は騙せない。仮令文章であったとしても、なんとなく、分かってしまうのだ。気づいてしまうのだ。とくに最近の出久は、名前が言うまで待ってはくれなくなった。
『…ごめん、ほんとに、ちょっと調子が悪くて、先に帰るね』
『僕も一緒に――』
『一人で……一人で、帰りたい。ごめん』
名前、と言葉を継ぎたがった出久の声を耳から遠ざける。スピーカーから音が漏れているけれど、通話終了のボタンを押した。
踊り場には歓声が響いている。反響して最早言葉にもならない音だったが、くぐもった音が、今は丁度良かった。
C組の教室で荷物の整理をしながらメッセージにそれぞれ早退すると返し、すれ違った教師にも調子が悪いから帰りたいと言えば存外すぐに頷いた。
電車に揺られて、いつも降りるはずの駅の一つ先で降りた。
――ちょうど、一年前くらいだ。最後にこの駅を降りたのは、中学三年生の春。出久がオールマイトに出逢った頃。
改札をくぐればロータリーの桜は葉が茂り、周囲を囲む椅子には数人が腰を下ろしている。空はゆったりと橙色を纏い、うっすらと月も見えていた。
腕時計を見遣ればもうとうに体育祭は終わる時間になっていた。見計らったように携帯が短く振動する。ロック画面を軽く一瞥して、そのままポケットに戻した。
ロータリーの桜を背に右に曲がる。十字の交差点の角にあったコンビニは今はコンクリートの駐車場になっていた。――そこで甘くない炭酸飲料を買うことが、彼女の仕事だった。
雄英高校合格を謳う塾を抜け、ラーメンや焼き肉の店を横切り、突き当りを左に進む。その先の大通りの大きな歩道を道なりに、二つ目の信号をわたると少し先に二棟のビルが並んでいる。信号の角にあったコンビニに一度立ち寄り無糖の炭酸を一本、買った。――たった百円の一本を買っていくだけで、まるでそれが全快するポーションかのように、ひどく喜んでいた。やっぱり暑いと炭酸が飲みたくなると毎回同じ科白を吐くものだから、冬でも言ってますよと、つい――。
ビニール袋を提げて少しさびれたビルを仰ぐ。階層ごとに弁護士事務所や不動産などのテナントが入っており、相変わらずその事務所は三階にあった。
「……」
空はもう暗い。街灯の明かりが眩しく、節電の為かビルの入り口は非常灯が付いているのみだった。ドアに触れるとセンサーが働いて、入り口の中と外の電気がパッと灯る。まるで、居場所を知らされてしまったような気がして思わずドアから手を離してしまった。
――世間から糾弾されるような犯罪者も、こんな気持ちなのかもしれない。足元を照らされる照明に怯えて、少しの力でだって開く扉を開けることもできず、結局このぶら下げた昔の名残だけが未練がましく今を拒んでいるように、誰かに許しを乞うているのだろう。
少しの間立ち止まり、挙動が少なかったせいでふっと消えた照明は一歩動かせばまた煌々と夜を照らしていた。
入り口の脇にひっそりとある長椅子に腰を掛ける。灰皿入れの中は煙草で溢れていて、いろんな銘柄が混ざり合った臭いが鼻を衝いた。
――いきおい、きてしまった。思い出しながら歩いていたせいで、こんなものまで買ってしまった。また、無理矢理に許してもらうために、苦笑いを張り付けさせるために、ここまで来たとでもいうのだろうか。出久がヒーローを続けていくことも見届けられず、中途半端に落とし込んだ本音が出てきそうになるたびに今日のように逃げて、察してくれと、構ってくれと言わんばかりに周囲にそれとなくメッセージを残して。こうして帰りが遅くなるたびに出久に心配をかけて、母の物言いたげな視線を受けて、それでも秘密を守る母に何も言うこともできずにまた何事もなかったかのような一日を過ごすとでもいうのか。――言葉だけだ。いつも、中身が追い付いていかない。分かっていると言えば言う程納得できない声が大きく膨らんでいく。だから、やはり雄英高校なんて行かないほうがよかったのだ。
走り出した。もう、この場所には来られない。どんな顔をして会って、どんな言葉を話せばいいのか分からない。憧れも、寂しさも、悔しさも、謝罪も、すべて、彼の心を曇らせる言葉の羅列にしか過ぎないのだ。
駅まで振り向かないで走り抜けた。
長椅子に、無糖の炭酸は置いてきた。
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