20.5



体育祭の翌日、出久は泥のように眠っていた。
リカバリーガールの個性は、個人が生まれながらにして持っている自然治癒能力を底上げする性質のもののようで、体力を根こそぎ奪われるのだという。
だからだろう、あの日も、出久が風呂を出た後の名前のところへは来なかった。半日以上を睡眠に費やした彼がのそのそと起き上がってきたのは一時頃で、なんとなく、名前は家にはいられなかった。彼とはすれ違うように、出て行った。


「……はぁ…」


思わずこぼれた溜息は、誰の所為でもなく紛れもない自分自身の中途半端な思考にだ。重い足を引きずりながら来たのは、県内でも多岐にわたる診療科と病床数を誇る総合病院だった。
――嫌気がさす。ここにきて、向き合わなかった自分自身へのツケが回ってきているようで、逃げ道はどこにもないような気がした。
ここにはもう、誰もいないというのに。なんのために、誰の為に、こんなところまできてしまったのだろう。
エントランスの前には細い枝葉を伸ばす若木が植わっており、囲むように設えられたベンチに腰掛けた。
――これでは、昨日とまるきり同じだ。あの日々を追走して、会いに行く心づもりでもするつもりだろうか。それこそ、誰の為のものだというのだ。
オフホワイトのロングスカートの影に、鳩が近づく。鳥もこの日差しは熱いと感じるのだと、少しだけ笑えた。


「――緑谷……?」


聞き慣れない声で呼ばれた名字は、酷く戸惑っているようだった。
こんなところで呼ばれるとは微塵も思っていなかったので、驚きで顔を上げれば今しがたエントランスから出てきた少年が肩にかけた鞄を直そうとして、止まっていた。文字通り、思考回路からすべてが停止しているようで、再起動をするのに少しの時間を要した。
つかつかと大股で近づいてきた彼に、鳩が飛び去る。
赤と白の髪が、日差しに煌めいては揺れていた。


「緑谷、そういう個性だったのか?」
「え」
「力とか出し過ぎると姿が変わるみてぇな」
「えっ」


がしと両肩を掴まれてまじまじと顔を見つめられれば、目と距離を離したくもなる。しかも彼のパーソナルスペースが狭いのかよくわからないが、とにかく近い。離れようとたじろいだ瞬間、左肩に鋭い痛みが走った。


「っ」


――やけどをしたかのような、痕が残った。恐らく、数日も経てば消えるだろうが、あの時の怒りがまだそこにあるような気がして、鏡で見ることも怖いのだ。
そうして漸く手を離した少年は、二歩ほど下がってから、悪いと、言った。


「……私、出久じゃないです」


疑問符を浮かべられながら見られても困る。立ち上がって、ショルダーバックの紐を掴んだ。


「出久の双子で、名前といいます」
「双子」
「はい」
「……似てんな」


よく言われます、などと返してから、沈黙が落ちる。数拍の間を開けてから、悪い、ともう一度真剣にそういうものだから、思わず、笑ってしまった。


「ふふ……っそんな勘違いをされたのは、轟君が初めて」


思い浮かべるのは双子か兄妹が妥当だろうに、個性で性別転換がでてくるとは。考えれば考える程、笑いがこみあげてくる。口元を隠しながらひとしきり笑えば、少年――轟焦凍は目尻を少しだけ赤くしてむくれていた。流石に笑い過ぎてしまったかと、ごめんなさいと言えば、もういいとだけ返ってきた。


「……もしかして、緑谷今ここにいんのか」
「あ……いえ、いずは家に――」


そうか。
少しだけ安心したように、そう言った。


「……悪かったって、言った方が、いいのか分かんねぇけど」


ふいに逸らされた視線が、雀の鳴き声を追いかける。名前も同じように辿って行けば、太陽の眩しさに目を瞑った。


「緑谷とやってなかったら、俺は今、ここにはいないと思う」


そして、右足をエントランスへと向けて、ゆっくり、病院を振り仰いだ。彼の大切な誰かが、ここにいるのだろう。出久がその背を、押してあげたのかもしれない。


「……それは、出久に伝えたほうがいい話ですか?」
「いや、自分で言う」


何故、そんな話をするのだろう。あの怪我は轟の所為ではないと知っている。誰かの所為だと責めるべきものではないとわかっている。出久が勝手に決めて、勝手にそうしただけだ。そんなことは誰もが分かっていることだ。
――怪我をして、出来た傷痕を見るたびに、今日の彼を思い出すのだろうか。
出久が必死になってなにかを叫んでいたのは、きっと彼のためだ。轟焦凍にとっての何かを守るために、あんなに傷だらけになっても止まらずに、戦っていたのだろう。そうして、彼は今ここにいるのだという。
――ああ、これが、きっと。


「……ここで、聞きたくなかったなあ」
「? 何か言ったか?」


いいえ、と首を横に振ればあまりよくは思わない表情をされたけれど、本当に、口から零れてしまっただけなのだ。
たった一言であったり、あるいは目の冴えるような平手打ちや、ほんの少しの手を重ねただけのような温もりが、躊躇っていた足場を固めていくことがある。それは恐らく、誰もが経験したことのあるような、まだこの先に隠れているような、いわゆるその人にとっての分岐点なのだろう。
相手にとって必要だったそれらを埋めることのできた人を、"そう"いうのだ。
――自分自身にとっての、ヒーローだったと。

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